成熟と喪失? ―真の自立は上昇の中から生まれるわけはない・その2―
昔、江藤淳が『成熟と喪失』というタイトルの本を出したことがある。
成熟すれば喪失するものがある。
これを思い出すたびに、アメリカの『小鹿物語』に感じた違和感を思い出す。
飼っていた小鹿が手に負えなくなり、母親が銃で撃ち殺す。少年はその出来事を経て、大人への階段をひとつ上る。
この物語の中でもう一つ、夢見る少年のエピソードがある。それは彼の友達。
雲を見て「天を駆けるスペインの騎士」などと夢想し、夢想の世界を離れられなかった病弱の少年は夭折した。
俺の違和感は、この二つの個所に対してだった。
生きるに適さない者は消え去る。大人としての生き方を身に付けないと生きて行けない。
その通り。誰がどう地団駄踏んでも。
俺の違和感は筋書き自体よりも、話の説教臭さにあった。上の世界から見下ろす視点。
『スタンドバイミー』なんかにも似たものを感じた。かっての仲間の餓鬼大将が、飲み屋で喧嘩の仲裁に入って殺される話。それを回想する東部エリート風の作家の私。
かつて俺は、クリスチャンに対して同じ臭気を感じた。あんまり苦しくて教会に行ったことがあるが、臭さが付いて回って行くのを止めた。言ってることはその通りなんだけどね。
肌身で感じてつかむものも、教え諭されつかむものも、得たものが同んなじならばどちらも一緒。
もしそうであるならば、世の中塾や教会や学校だらけにすれば事足りる。まともな大人を、社会人を製造するには。
実際、今の社会はそうなっている。だからにっちもさっちもなのだ。
上昇せずにその場にいる。それは自前の感性を、それでつながる仲間を大事にするということ。
その種の者は、説教なんざ死んでもしねえさ。同んなじものをつかんでも。孤独の世界向かっても。
(付記)
江藤淳は東京人=封建サラリーマンの子弟だったってだけの話。三島由紀夫なんかと同じく。
こんなもん口開けて読んでた頃が懐かしい。遠い昔、おのぼり時代の俺。
共鳴共感、義理人情、人はそれぞれ、人は並立、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。
(付記2)
人に必要なのは「おうそうだ! おらもそう思う」。この共感共鳴。
正しいお話を言ったり聴いたりすることじゃ絶対に無い。