「仲間」の本質 ―真の自立は上昇の中から生まれるわけはない・その3―

 仲間意識の本質。

 それは人間誰でも同んなじ、または似たようなものという感覚、感性、意識のこと。

 人は誰でも同んなじ事を感じ、同んなじことで喜び、同んなじことで怒り、泣き、同んなじ程度の力を持ち…。一長一短はあるにしても。

 餓鬼んちょ集団の遊びの中で(大人のバイアスがかからない中で)これを感じた経験があれば、人は安易に人を差別しなくなる。

 海外などの他の土地に行っても、言葉の違いや様式の違いを踏み越えて相手と関わる一番いい手がかりになる。

 人を人として認める感性の本質と源。それはこの辺にあると俺は思っている。

 もしあんたが大人達のバイアス(偏見)に塗れていたならば、それを拭うのがあんたの第一の仕事だ。何をおいても。裸で、体当たりで、赤っ恥(あんたの偏見が生み出す自傷感覚)覚悟で。仮に一生を費やしても。

 一生を費やして? 

 そうさ。でなけりゃあんたは、一生周りに害悪をばら撒いて終わる。

 ごまんといるべ? 東京辺りにゃ。利権の大人のケツを追う偏差値仕様の良い子が。五十、六十、七十過ぎても、何ひとつ変わらねえ父っちゃん坊やや嬢ちゃんが。

 こいつらがどれだけ娑婆に人間に害悪を振り撒いているかは、汗して生きる者達なら馬鹿でも知っている話だ。傲慢な東電、マスゴミ、役人。こんなもんは氷山の一角に過ぎないことは、汗して生きる都市下層民も嫌でも知ってるだろう。


 共鳴共感、義理人情、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。



(付記)

 ヒューマニズム。類的存在。

 この手の字句でようやく納得する人は、読まなくていいよ。腐った体と頭を下放して、泥にまみれてから出直して来い。