山崎ハコと中島みゆきと真司ちゃん ―他人事だけど―

 俺は昔から、中島みゆきは駄目だった。まるで。

 似てるとされる山崎ハコの方ははよかった。

 こいつは生理的なもんだから言わん方がいいと思っていたが、歌―というよりももの作りの本質にかかわっているように、この頃では思う。

 俺なりの言い方では例えば、中島は要領がいいがハコは下手くそ。生き方が。

 これは環境や能力のせいとも見えるが、本質的にはそうじゃねえんじゃねえかという気が俺にはする。

 ここは踏み越えちゃまずいぜ。こういうものは確かにある。ものを作っていると。意識的にというよりも無意識的な所で。体がついて来ないということ。仮にやりたくても。

 この辺の変わり身が出来るか出来ないか。この違いは体質、というよりもものを作ることの本質にかかわるように俺は思う。

 この頃とみに思う。首から下の問題。首から下に、身体的なものにどこまで根ざしているのか。本当に体が知っているんかいということ。

 先日、宮台真司という人物の吉本隆明評をたまたまユーチューブで聴いたが、気になることがあった。同じ意味で。

 http://youtu.be/8ZK0YHi5JvE

 彼は高校時代にいかれた吉本を4年程度で卒業したと言っていたが、ほんまかいな。

 宮台がいかれたという1960年代の吉本の一番の良さは、頭じゃない体に、自分の身体感覚に根を置けと言い続けたことだった。それは間違いじゃ無かったと今でも思う。増々思う。

 宮台は例えば、吉本が普遍(不変)的要素として提示した大衆の原像なるものも、社会的な仕組みの変化によって変更、または解体したと言う。

 吉本も同じことを言っていたよ。大衆そのものが上昇しちゃったと。社会(資本主義)の高度化によって。

 宮台はコムデギャルソンを着てちゃらちゃらした80年代(以降)の吉本を、何が知の巨人だと批判したが、その辺は俺も同じだ。

 でも宮台よ。それはあんたと同じになったってことだよ。吉本が。身体感覚を無くして。

 上昇した大衆なるものも、また然りなのだ。

 本質的なものってのは、多数決なんかじゃないんじゃないの? 

 周りがどう変わっても、ということ。意地とか頑固とか、そんな話(首から上の事柄)じゃないよ。

 首から下に留まる。自分自身が。右顧左べんを捨てて。意地を捨てて。見栄を捨てて。体裁を捨てて。自分の感覚感性に掉さして。

 その辺の自分がしっかりとあれば、こんなことは言わないよ。「天皇の御心に従うことが明治以降の日本の世直しの形態と吉本が見抜いたことは、全く正しかった」なんてね。

 あんたと同んなじ頭でっかち(旧左翼)になんざ、大衆はついて行かなかったと言っただけ。吉本は。

 でなけりゃ吉本は、転向の心理(共同幻想の根深さ)と挌闘なんかしなかったさ。優雅に骨董をやり、古典をしゃぶり、歌でも詠ってたろう。小林秀雄の爺さんのように。結局は奥底のものをつかみ出すこと無く、あんたの同類に成り下がって終わったけどね。

 本当の自分。こいつを感じている者は、へんてこりんなものに自分を重ねたりしないものなのだよ。どんな時代も。

 それが意地でもドグマでも何でもないのは、あんたにゃ分からんだろね。空虚なあんたには。

 心の空虚。それは虚構と対のものなのだよ。

 永遠に必要さ。空虚や虚構には。実存の代替物が。それだけの話。

 自分に掉さして身動きならなかったハコと、社会的なもの(どんなにもっともらしくても結局は虚構)に根を置いた、弁の立つ中島。

 大衆は、例えて言えばハコみたいなものなのだ。少なくとも吉本がかつて言った大衆は。自分の体に信を置く訳だからね。

 めんど臭くて頭は下げても、天皇万歳なんて言わないさ。別に。空虚な坊ちゃん達のように。