何んでおいらは共和制に行き着いたか
俺は、地に足のつかない言葉をもって自分の活動をアピールする人々は、経験的に駄目だ。というか、関わりたくても深く関われない。
市民を標榜する人々の中には、この手合いが多い。彼らは例えば平等を唱えても、理念と裏腹に人と本当には関わろうとしない。
自分をばらすことが出来ないのだ。観念の上に自分を置いているので。
立場や肩書きにこだわる精神構造と同んなじ。
信用できるのは例えば飯のためでも何でもいい、熱心に働く者や汗を流して人と関わる者達だ。
自分の中の垣根を壊さないことには、先に進めない人々。
この種の者達は、保守と見られる者の中に案外多い。
彼らは現実の中で生きることを隠さないので、そう見られやすい。霞も飯の人々から。
この種の者達は確かに保守だ。上辺の政治思想は。
こちらが体当たりで話をすると、「おうそうだ。おらもそう思っていた」。こういうのは、大概この種の人々だ。そこから先は気持ちもつながりやすい。
市民を標榜する人々に同んなじことを言うと、「それは○○がかつて言っていた」「△△思想にそう書いてある」。親切にそう教えてくれる。だが話はそこでお終い。その先気持ちもつながることはまず無い。
後を引くとすれば嫌われたり、なぜか恨まれたり。これがこの種の人々の中に入った時の俺の位相だ。
分不相応ということ。何のことは無い。サラリーマン社会で、格下身分の者が気を付けるのと同んなじ配慮が必要なのだ。なのでそうしている。
取っ払うべきはこの精神構造。この国の永年の社会構造に照応するところの。
なので俺は言う。共鳴共感の共和制。人は並立の共和制。人は誰でも造物主なのだよの共和制。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム。
(付記)
自分の中の馬鹿さを取り払う人生。ずい分高く付いた気はするが、悪くは無かったと思う。いまだ不完全の今も。
この種の人生は嫌でも下降(貧乏化)を伴うが、そうしたくてしたことは無い。金は欲しいさ。いつだって。