似非の民主の実体験
「(民主党内の)頭でしか考えない偏差値政治家や、一見インテリ風の政治家が、自己中心のプライドで(小沢という人物を)排除している」。
これは平野貞夫という保守政治家の言だ。
これは俺の永年の実感をも表している。民主だの自由だの共生だの平生耳触りのいいことを言う者達(例えばインテリ・知識人や自立した市民を気取る者達)ほど、実は真っ当には人と関わっていないという実感と実体験を。
理由は簡単だ。
この種の者達は関わった時に事実や実感や実体験ではなく、頭の中のフィルターを通して人を仕分けし関わろうとするからだ。
この種の者達はその種の脳内作業が、人間への真の差別を生んでいることに気が付かない。あるいは気が付かぬ振りをする。
それは彼ら自身、自分の存在根拠がそこにあると思い込んでいる。あるいは思い込もうとしているからだ。
実体験では無い活字や知識や資格等々。こいつに寝そべることがどれほど滑稽かは、一応だれでも気が付いてはいる。言葉や知識(頭)のレベルでは。
だが現実の娑婆で実人生で、この種の滑稽を免れるべく努める者に出くわすことは極めて稀だ。
これも理屈は簡単だ。娑婆の損得打算と根深く結びついた人間の共同主観(馴れ合い)的存在構造。こいつを抜け出すことは、高く付くからだ。労力的にも金銭的にも。
だから気が付いてもやらない。やらないだけでない居丈高になる。その種の努力をする者に対して。
この国の伝統的な支配と統治の体制と、それを利した欲望の体系。それは個人のレベルにおいては、一見民主のスタンスをとりつつ如何に狡猾に体現されるか。
その実体験を俺はかつて記した。これは、今もまるで変わらない俺を取り巻く人の状況だ。
http://d.hatena.ne.jp/honahonahonami/20110709
ちなみにそこでは吉本隆明まで持ち出して、その種の組織に腰かける自分の正統性(飯食う俺がとやかく言われる筋は無い)を唱える者もいた。
そう。誰にも非難の資格は無い。飯食うために俺は今ここに。真にそう生きているならば。