ツイッターとの関わり・一先ずのまとめ

 仕事を放り出してツイッターの洪水の中に身を置いてみて良かったこと。それは自分の中の意識無意識を浮かびあがらせることが出来たこと。それと人の意識は多層的だということの確認だ。これはブログの類を何年書いても、そのレベルで関わっても分からなかったことだ。

 ツイッターには大衆運動のの流れ、または草原を集団で移動する動物の群れのような流れがある。うだうだ観念をこねずにそれに身を投げ込んでみるという、遠い昔のわずかな経験も少しは再体験できた気がする。

 ここ3日間の率直な感想として一番強いのは、多層的・重層的なな人間(他人と自分)のどの部分と関わるかということだ。それは一口でいえば、その人間が体験を通して濾過してきた感性なのだろうと思う。

 濾過などという綺麗なもので無くても、例えドロドロとしたものでも、それが俺がこの場で何ものかを得る(反省する)上の最良なもののように思う。

 体験なんてもんは、歳をくっていればいいというものではない。多層的な自己のより奥底(又はトータルな自分)から出てきたものならば、出自も年齢ももちろん経歴も、そんなものはどうでも良くなる。一般的な観念のごとく、理解吸収の参考程度にはなるとしても(そんな所に力点を置く必要は勿論無い)

 ツイッターの洪水。こんなもんの中に巻き込まれ、流されたんじゃ駄目だというのは改めての俺の実感だ。だが面白いことに、この中ではむしろ相手の実存(相手自身)の部分も、個別のみの関わりよりもよく見えるような気がする。それは俺自身についてもそうだろう。

 これは関わって良かったと思う一番の点だ。仮構的空間の限界は当然あるにしてもだ。今後どうするかは分からないが、この部分は大事にしようと思う。

 余分な一言になるが、半世紀近く前にお上りした俺が嫌という程感じた、言葉や感性の中央集権的構造(中央的なものによる仕切りや囲い込み)。これもどうやらちっも変わっていないなということも。

 反発した所で仕方がない。個々の生き方、人生、感性が醸成した自分自身において、それとも関わるしかないのだ。そこに集権構造を無化・無意味化する新たな力が芽生えることを、少しは願いつつ。虚構の自分を見抜き、改変することと対のものとして。