労働・労働疎外と前衛的人々

 「‏@KarlMarxbot  一方の人々は偏狭な都市動物に、他方の人々は偏狭な農村動物にされ、両者の利害の対立を日々新たに生み出す。ここでもまた、労働がものごとの要であり、諸個人を支配する力である。(ドイツ・イデオロギー)」。これは労働の定義というより資本制下の労働力の定義だ。

 俺の記憶では疎外論を唱えていた頃のマルクスは、新たな創造を含む人間の全的活動を労働と呼んでいた。それに対する資本制労働の桎梏=金のためのええとこ取り・つまみ食い仕事[労働力の販売)。これを強いられる所から生じる労働者の苦悶を、疎外された労働と言っていたと思う。

 「資本制社会に真の労働は無い」。ドイツイデオロギー以降のマルクスが、この定義によって論を進めたならば、都市や農村の労働(力販売)者は対立するばかりであり、働くこと自体が対立の種を産むことになる。

 
俺はマルクスを経典とし、その引用によって自分の考えを正当化するつもりは無いし、そこまで読み込んだことも無い。ストレートに言ってしまえば、労働―疎外された労働の本質を直観的にとらえていたマルクスに俺は共感する。仕事の経験に根ざして。

 大げさな言い方かもしれないが、前衛とはそういうものだと思う。真っ当に働いて汗を流し、要求される以上の意味と本質を労働から見出し、資本制社会の解体をも図らずも胎胚してしまう。(そういうものをマルクスはドイツ職人労働に感じていたのだろうと俺は思っている。

 時流に引き寄せて言えば、原発事故にしてもその後の悪しき処理にしても、科学者という名の知的労働者や現場労働者(例えば東電社員)の中に、要求された以上の、サラリーマン労働以上の、仕事の原理に対して忠実な職人労働者がわずかでもいれば、防げたかもしれないのだ。

 俺はこういう労働者は案外いると思っている。経験的に。農村にも町工場にも。一握りかも知れないが東電の現場にも。小出裕章などはこの意味で真っ当な知的労働者だ。

 経営側との駆け引きや妥協、組織防衛に明け暮れてただの労働力販売者になり下がった労働組合や、それを支持する政党など前衛ではあり得ない。青年マルクスが直覚した、労働疎外(賃金奴隷の空しさ)を真に知る、仕事の本質のために汗を流せる労働者達。前衛の中核は彼らだろうと思っている。