変革の原動力としての労働

 マルクスの言う剰余価値。価値の単純再生産では無い、労働者が生み出すプラスアルファの価値。このピンハネが資本制社会の本質だ。これを安心して調達するために資本家や統治者達は、もっともらしい正義の幻想(言い訳)を生み出す。それは国家であり、例えば日本においてはその究極の御墨付きの天皇

 マルクス親父に文句を言うとしたら、あんたはこれをオートマチックなシステムとして捉えちまったんじゃないかいということ。剰余価値を生み出すのは単なるシステムじゃないぜ。主体たる労働者にとっては。

 社会は確かに崩壊しないかも知れない。経済、国家、制度の諸矛盾が一定の限界に達しない限り。

 昔、よく言われたバカ話。「だったら我々労働者は、この崩壊を寝て待てばいい」。これをほんとに実践しているのが、資本家との駆け引き、馴れ合いに明け暮れる労組・ダラ幹、マスゴミに巣食う腐れインテリ「労働」者。果報は寝て待て。

 主体たる労働者。この側で言わせてもらえば、剰余の生産は苦しくもあり楽しくもあり。創造的(+αの)要素のねえ仕事なんて、苦行以外の何ものでも無い。これは誰でも一緒。打ち込む程に仕事の中に摂理を見出し、これを取り込む。創造だの発見だのはこんなもん。営業屋だってやる。人との関係の中で。

 これがあるから社会は変わる。変革の力は胎胚する。典型例はガリレオコペルニクス。「ヘンだな」の閃きとその執拗な探求が「お天と様の方が動いてます」の教義の変更を生んだ。

 有名どころなんか持ち出さなくたって、人は必ずこれをやっている。町工場でも野良でも。

 ピンハネされたってやるさ。それが労働というやつだ。人間様の本質に根ざしていれば。

 ピンハネは苦痛、怒りだ。だが創造は労働者の存在根拠そのものだ。だからそうする。ピンハネされても。誰でもガリレオコペルニクスのごとく。資本制の社会構造の中では。

 労働(者)の本質、主体性。これがなければ余剰価値は産めない。社会は前に進まない。進まぬどころか自己崩壊するだろう。マルクスの言う革命とは真逆の。

 個人レベルに話を戻せば、この国だけかどうかは知らないが、知的「労働」者はなぜ駄目か。首から上と下が切り離されて、作る力(原動力としての情熱情念等)を失くしてる。去勢というやつ。

 権威を戴く上昇志向。その中の魂の売り渡し…。原因だの構造だのは一先ずおいて、俺の長年の実感を。ピンハネは一先ず構わねえ。資本制の中じゃ。だが邪魔しねえでくれ、創造部分は。体のいい理由付けで。

 これが俺だけの実感、怒り(時には憎悪)じゃ無えのは、三十数年前にそれこそ実感した。「俺をあいつを『軽い奴ら』とあえて見下して、責任(発言権)まで奪うのは、おかしいんじゃないか」。これを言ったら、普段はいがみ合う者達(元請け下請け孫請け、アルバイト)もうなずいた。

 人間は作りたくてうずうずしてる動物だ。これを怖れ、発言権(創造力)を奪い、あえて「下」に押し込める。これがこの国で大量生産の朱子学(上意下達)仕様、宦官仕様の知的「労働」者だ。マスゴミだの東電だの。見りゃ分かるべ? 以上が俺の位置からの剰余価値収奪論―てより「剰余価値すら抑圧」論

 (蛇足)中国が二千年間王朝の興亡のみを繰り返し、なぜ社会が前に進まなかったか? これを事実として話を進めれば、そこには人間を怖れ創造力(労働)を抑圧し、凝固したパイの奪い合いだけに明け暮れる、創造力を欠いた儒学仕様の官僚宦官制度があったからじゃねえかと感じている。俺の勝手な印象だ

 (蛇足の蛇足) いわゆる初期マルクスは労働(者)の主体性を軸にしていたと思う。そこから閃いたのが労働―労働疎外論だろう。だが後期マルクスは計量計算ばかりに話が行っちまった感じだ。本人がどう思ってたかは知らないが。

 (蛇足の蛇足の蛇足)東京圏の田舎に戻って実感したのは、この地の知的分野の組織労働者は、組織の形や組織の指示に身を重ねるのが仕事、またはステータスと信じ込んでいる。これだった。東京出戻り組はとりわけ。彼らにとって俺はもっと酷い落ちこぼれ、ルンプロに過ぎかかった。

 田舎もん(又は落ちこぼれ)は自分を客観視する機会は、嫌でもあちこちからやって来る。どう生かすかは別として。「中央」(又はそれに類した場所)にどっかと腰かけてりゃ、そんなことしなくても済む。ていうよりしない方が、しない振りしてた方が得。


(付記)
 私も、マルクスの思想の根源を遡るところがありました。断片的なものでしたが。 マルクスの発想に職人労働者的なものがあると感じたのは、たまたま協同組合の源流を調べた時でした。ギルドの系譜の生真面目な職工組合。直観であり、論証できる程の根拠はありません。