(2)凝集力(初出 07.7.14)


 人生を振り返って大事と感じるものに、「凝集力」がある。



 集中力と言ったっていいようなもんだが、自分の体や感性の力を一点に集めるという意味で、凝集力と言った方がすっきりする気がする。



 



 気持ちを集中させるのが大事というのは、何においても感じることだ。



 最初はコケの一念でいい。ガキの頃の思い込みの凝集は、娑婆の出来事にぶち当たって試される。おめえのやってるのは、それだけのもんさと。その種のささやき、つぶやき、嫌がらせにつぶされなければ本物に、ほんまもんになれるだろう。誰だって例外無く。



 



 人の能力というが、俺はほとんどすべては、それにかかっていると思っている。職人・技術者の凝集力。俺の力でやってやるぜの土建屋の、町工場の親父達の凝集力、営業屋の凝集力、画家・作家、音楽家の凝集力、一念発起の者達の凝集力…。こいつはどれも、経験上感じることだ。



 



 こいつはくたびれるが必要だ。不可欠と言っていい。作るとはそういうものだからだ。自分を拡散させるばかりの「消費者」じゃ駄目というのも、この意味だ。無理は禁物の一点さえ身につければ、それによって潰れることもなくなる。



 



 俺は「質への転化」は、凝集の中で生まれると思っている。新しいものを生み出す。気持ちの入った何かを作り出す。それは、必然的に量をこなす中、凝集力を触媒として生まれるのだ。媒介は、怠け者共が単純に信じる「才能」などの腐れ神話じゃない。



 俺がエリート主義の優越等々を嫌悪するのも、ここにおいてだ。やりゃ、誰だってできるのだ。「優越」など、根底的に存在しない。知能指数? こいつが仮に実体でも、大抵はプラス・マイナス5〜20位のそんなもの、人より余分の時間の投入、陰の努力で補える。



 それに何より、借り物のヘンな尺度を神座に置いて、ヨーイ・ドンなんてしなけりゃいいのだ。



 誰だって自分の人生、自分の世界は自分で作る。凝集力を根底に置いて。自分自身の覚悟の上に。



 



 中江藤樹という陽明学の先生の逸話は、いつも気持ちに浮かぶ。ある日、人からバカと馬鹿にされる「性魯鈍な」男が、藤樹を訪れ頼んだ。「おら医者になりてえ。先生、勉強教えてくれ」。よっしゃ分かったで先生は、人の数倍の歳月をかけ、ついに「魯鈍」の望みをかなえたと―。



 実話かどうかは知らない。だが俺は、陽明学の革命性の、真の「民主性」の本質は、ここにあると思っている。今もどこにもゴロゴロいる、朱子学係累・末裔の、口先「民主」の腐れエリート共の思い上がりへの反証。「特別」なんざ存在しない。こいつは俺の人生の実感でもある。



 



 凝集力。こいつを養う心の宇宙。その根底は欲望でも、飢えでもない。「愛情」だと思っている。



 そいつは当然無方向だ。