(2) 職人列伝(一) 放送界最後の職人 音屋のOさん(第一話)(第二話)(初出 07/07/2006)


(第一話)



 職人とは古くさい言葉だが、ほかに適当な言葉が見つからない。ここでは、自分の仕事の世界に没頭できる人というほどの意味に理解してもらえればと思う。



 職人でまず思い出すのは、七回前に触れたある音屋さんのことだ。もう十数年前に亡くなった音屋のOさんは、この地方の放送界最後の職人だった。私より三十幾つは年上だったに違いない彼は、知り合った頃はすでに白髪の老人の雰囲気だった。彼は、私がこの地方に舞い戻るよりだいぶ前に、地元の放送会社を辞めて、音声編集のスタジオを起こしていた。人の話では彼は、1950年代の初めの頃、今はテレビも持つ民放のラジオ局がここに誕生した時、音声技術者として入社したとのことだった。彼の年齢と、即戦力が必要だった当時の事情を思えば、映画なのか音楽なのか、どこか別の業種から移ってきたに違いなかった。



 Oさんは歳のせいもあって仕事が遅く、使う機械は古かった。だから時間がかかる上、音と映像を合わせるのにしばしば失敗してやり直した。それでも、この地方にわずかにある音楽関係の会社や、でき始めていたテレビの下請け会社が仕事を出したのは、断ることを知らずに大抵二つ返事で引き受けたからだった。しかもほとんどずべて言い値で。だからOさんの受け取る賃金は、破格に安かった。それは彼が、自分の腕に自信がないからという訳ではないようだった。彼は仕事の遅さや、ミスによる時間のロスは、深夜や、時には徹夜もいとわないやり方でカバーした。だから、その場で立ち会う者がいら立つことはあっても、納期に遅れるなどのことは無かった。実際どの仕事も、悪い出来栄えのものはなかった。



 彼が安い仕事をそのまま引き受けたのは、自分の技術を賃金に換算する意識の希薄さに由来するようだった。また彼は、下請け孫請けの制作会社が受け取る制作料と、そこに働く者の賃金は、放送会社の社員と比べれば、天地の差があることを知っていた。だから彼は、稀に愚痴をこぼすことがあっても、「この業界は安いからな」。それで話を切り上げた。そして仕事に入れば、値段も何も関係無しに仕事に没頭した。元々予算の乏しい下請けや孫請けは、要求されない限り、自分の方から多く出すなどあり得なかった。だからOさんの賃金は、ひ孫請けの水準に違いなかった。



 80年代には、私はOさんとしばしば仕事をした。私が仕事を受注していた会社は、その頃できたテレビ局の直属の下請けだった。だからそこの番組を作る時は、音の編集などに局のスタジオを使うこともできた。だが音が大事な番組作りの時は、Oさんの出番だった。後発のUHF局には、この種の技術者は存在せず、若者ばかりがたむろする下請け会社にも、画面の雰囲気に合わせて選曲できる者はいなかった。彼らにできるのは、天気予報のバックミュージック位だった。それはアナウンサーも同じだった。どこもそうだったが、いわゆる局アナの中で、感情移入の朗読ができる者は皆無だった。



(第二話)


  0さんの善さが身に沁みたのは、あの素人カメラマンNとの、ある作曲家の伝記づくりの時だった。十八の時に上京し、大正・昭和に多数の曲を残したこの大衆歌謡の作曲家は、この地方には稀な人物だった。彼は、自分の感性に素直な人だった。



 それまで私はこの作曲家について、古い流行歌の作者程度の認識しかなかった。それは確か、中学が高校の頃だった。私は姉に、彼があるクラシックの作曲家と競作した童謡を、小馬鹿にしたことがあった。単純なテンポで、抑揚も情感も負ける―。確かそのような意味のことを言ったのである。それは彼の、音楽的な学識の無さを揶揄するものだった。当時の私の彼への印象はその程度で、それは私の程度でもあった。その後私は歩みの中で、物事のとらえ方を幾分なりとも変えてきたはずだった。だが作曲家への私の印象は、更新されないまま過去の戸棚に残されていた。



 そんな記憶を思い出し、思いを書き改めたのは、仕事を請け負い、彼の曲や日記を調べている時だった。上京した彼の中にも、葛藤は潜んでいただろう。だが彼は、いつも自分の側に自分を置いて生き、曲を作った。その丸みを帯びた肉筆や文からは人となりがにじみ、書き記した論文からは、音楽への知識の深さが伝わった。そして分かったのは、知識と彼の間合いだった。彼は、西洋の楽曲や音楽理論からさまざまなものを吸収したに違いなかった。だが、それによって彼の生き方や音楽にブレが生じた形跡はなかった。



 私が嬉しかったのは、彼の曲作りの姿だった。ユーモアに富んだ彼は、作詞家が渡す原詞に少々手を加えることがあった。それはたいてい、合いの手の部分だった。リズムが良くなるように言葉を繰り返したり、お囃子や掛け声のようなものを付け加えたり―。それはいつも、その詞の楽しさ、温かさを引き出すものだった。調査や取材を進めるうち、彼のユーモアや感性は、雪国に近い郷里の風土に根ざすものでもあることが分かった。



 音楽家が主人公の三十分番組には、あのNと共にOさんは不可欠だった。そのことは分かる下請け会社の担当は、迷わずOさんに仕事を振り向けた。音編集に向けたOさんの格闘が始まったのは、それからだった。



 (続く)