(3) 職人列伝(一) 放送界最後の職人 音屋の0さん 第三話

                 (初出 7/9/06 )


  この仕事でOさんは、実は音声技術者以上の役割を果たした。彼は作曲家の手記の朗読で、声優役も務めたのである。Oさんを声優に仕立てたのは、下請け会社の担当と私だった。それは正味24分30秒の、画面編集成った映像を見ながらの時だった。「アナウンサーではなあ…」。そういう私に、いつになく乗り気で聞いていた担当が言った。「Oさんはどうだ」。 普段は予算のことしか頭にない彼が、Oさんをどの位知っていたのかは定かではない。だが私は、彼の話に話に飛びついた。「いいアイデアだよ。Oさんとは適役だ」。



 この種の朗読には、登場人物になり切るだけの技量が要り、たいてい俳優がその役となる。しかしせいぜい1、2万円程度の謝礼の下請け制作の番組に、延々時間をかけローカルまで来る俳優などいるはずがなかった。したがってOさんには、田舎歌舞伎の三文役者の役回りが降りかかったことになる。だが私は、今もOさんには済まない気がするが、彼はお涙金の代役以上の役を果たすに違いない―、そう直感した。ゆったりした口調でユーモアがあり、心根のやさしい彼は、この作曲家の像と相当部分重なるように思えたのだ。業界人特有のドライさを身に付けた担当も、このときばかりは同じことを感じ取ったに違いなかった。



 私と担当は早速Oさんのスタジオに行き、画像を見せながら頼み込んだ。「予算はないんだけど…」。それとなく言う担当の話も耳に入ったはずのOさんは、「よし、やりましょう」。そう言って二つ返事で引き受けたのである。Oさんはその場で、フリーの女性アナウンサーにも電話して、ナレーションの朗読役を頼んだ。



 数日後、Oさんのスタジオでは、まずアナウンサーのナレーション取りが行われた。普通この種の番組作りは、局のスタジオを使い、生放送同様に効果音もバックミュージックもナレーションも一気に入れて、30分のリアルタイムで済ましてしまうことが多い。しかしOさんのスタジオにはそれだけの設備も、各パートを担当する技術者もいなかった。それらの音の収録や処理は、一つひとつ彼が行ったのである。私にはOさんが、放送局を辞めてまでスタジオを開いた理由がよく分かった。効率が良くても悪くても、彼は自分の鼓動の中で音作りがしたかったのだ。



 ナレーション取りに立ち会うなか、私には50前後の女性アナウンサーが、家で何度も読みを繰り返してきたことが分かった。その頃のアナウンサーの中には、フリーになって朗読の幅が広がる人達がいた。



 ナレーション取りが済んでアナウンサーが帰ると、いよいよ声優0の出番だった。録音装置のスタートもOさん、朗読もOさんという奇妙な収録風景が、私の目の前で繰り広げられた。「ああ、つまずいたな…」「どうだい。こんなもんかい」。Oさんは一つの個所を読み終えるたび、私を見ては言った。Oさんは音屋の仕事同様真剣に、また楽しそうに朗読に取り組んだ。「Oさんで良かった―」。それはその後、音と画を合わせてみて改めて感じたことだった。読みが終わるとOさんは言った。「明日の朝までに仕上げるから、10時ぐらいに来てくれればいいよ」。Oさんは例のごとく、ほとんど徹夜で仕上げるつもりだった。それはOさん自身独りになりたいのと、張り付きになっている私への気づかいだった。



 翌朝、スタジオへ駆けつけると、Oさんは付かれきった表情で深々とソファに座り、不機嫌そうにつぶやいた。「大変だったよ、こぼれちゃって…」。「こぼれる」とは、ナレーションや朗読が長すぎて、シーンからはみ出すことである。場面が変わったのに、次の所まで音を引きずることを言うのだ。「えーっ、そんなはずないのに…」。それは私が普段、一番気をつけていたことだった。画面編集の場合、余裕がある時や緻密さが必要な時は、ナレーションを書き上げてからの編集となった。だが、画面を言葉に当てはめない方がいいシーンでは、映像の流れを優先しての画面作りとなる。このため、画の編集から音取りまでの間に、ナレーションはかなりの個所を書き直さなければならなかった。この時一番注意を要するのは、音がこぼれないようにすることだった。「このシーンは感情を入れてゆっくり読むはずだから、この程度の字数に抑えて」「ここは平均的な字数で大丈夫」。読み手のくせも想定し、Q出しのタイミングも計算して、自分自身何度も読み返しながらの作業となった。「音がこぼれる」。この経験はこの時が初めてで、また最後だった。局アナにナレーションを頼む時は、各シーン共たいてい間が空き過ぎることばかりだった。



 「これは俺のミスだ」。私は、昨日のOさんの熱心な朗読を思い出して、ようやく気が付いた。つい聞き入ってしまったので、まるで注意を払わなかったが、0さんは私の想定よりもずっとゆったりとした口調で朗読していたのだった。私はまた、一応それも想定してかなり余裕を取ったつもりでいたので、Oさんのせりふの秒数をいちいち確認しなかったのである。それはまた、音屋としてのOさんのミスでもあった。だが昨日のOさんは、役者になりきっていたのである。



 不用意で不器用な私とOさんを救ったのは、明け方まで及んだOさんの緻密な作業だった。「ここの間は短くても大丈夫。だから少し削った」「この音は、次の場面に残っても不自然じゃないからそのままにした」「ここのせりふは、外してもうまく流れるからすこし取った」。Oさんは私に音声付きの画面を見せながら、場面場面で説明した。言葉の意味に注意を払い、シーンの流れを考え、テンポやリズムや間などを体感し…。それがどれほど大変な作業だったかは、音作業は素人の私にも想像できた。そして、番組の流れのどこにも何の支障も違和感も与えずに、完璧に作業は終わっていたのである。



 翌日は完パケ作業という、1インチの放送用テープに画面、音声などを収める作業だった。ここまでくれば、九分通り完成。後はテロップ文字をタイミングよくフェードイン、カットインさせれば良いだけだった。そして嬉しかったのは、完パケスタジオの所長が、『やさしき心…』という番組のタイトルテロップを、「機械打ちでは雰囲気が出ないから」と言って、わざわざ手書きしてくれたことだった。ある放送局を定年退職して天下った彼も、よき作り手の時代の男だったのである。



 制作時の出来事とともに忘れられないのは、普段は私の仕事には関わらない妻が、たまたま放送を見て涙ぐんでくれたことだった。夫の仕事に対してというよりも、番組に対して。それが私には何よりの思い出となった。



 



 撮影したNとは1年ほどのち、前記の事情で分かれたきりとなった。Oさんとはその後も何度か仕事をしたが、私に降りかかった出来事、というよりも事件で、私が映像の世界を離れる頃には、時候のあいさつだけとなっていた。そしてそれから間もなく、Oさんは亡くなった。喪章だけ巻いて急いで葬儀にかけつけた私は、服装を笑う他人達に出会っただけだった。Oさんのスタジオを継いだのは、彼の下で働いていた柔和な顔付きの若者だった。変わらず出していた時候のあいさつの返事は、すぐに途絶えた。