論理は体で

                (初出 8/15/2006)


 どんなにひどいことをした人間でも、時間が立てばたいてい「まあまあ」と言って近づいてくる。それは「上」の者のやり方だ。形を味方にする彼らは、人の感情は時とともに変わると高をくくっている。



 体験は時と共に風化する。体験を言うだけでは、必ず時間に負ける。



 そうしないためには、既成の形に対抗できる自分のスタイルを、言葉として主張できるものを持つしかない。社会に対し社会論、宗教に対し宗教論、国家に対し国家論。



 これは大変なことだ。だが、やらなければ必ずいつも負ける。引かれ者の小唄で終わる。



 国家と強者はどこも必ず、「自然」を身につけている。宗教としての「自然」、国民としての「自然」。人はこれに弱い。「それは自然だ」。言われれば、たいていたじろぐ。知らぬ間に譲歩する。



 大事なのは、シンプルに感じ取ること。そして自分の論理の構築を、専門家という他人に委ねないことだ。



 彼らは国家や強者と同じだ。あちら側で、既成の観念で思考する。どんなに善意の言葉でも、反体制なる理論でも。専門知識とはそういうものだ。



 観念はヒントとしては役に立つ。辞書が役立つように。専門家もヒントとしては役に立つ。弁護士や税理士が役立つように。だが、彼らにお伺いを立てる経営者が経営者として失格なように、相手に思考を預ける我々も、どう言いつくろっても失格なのだ。



 素直に、体から湧き出す直観で見抜けばいいのだ。直観で言えばいいのだ。どんなにたどたどしくても。馬鹿にされても。


 言葉も論理もその中で、自然に固まる。形になる。専門家は、ぜいぜい補佐役だ。



 私は例えば、「自己責任。それを言うなら共和制だぜ」と直観する。でなけりゃ、馬鹿な上役の言い分と同じ。一方でひれ伏させ、一方でお前の責任は成り立たない。



 たどたどしくても、作っていけばいいのだ。「自分の暮らしは自分で守る」の延長で。自分の軸をぶらさずに。