放送というのは空っぽだ。たむろする者達が。


 例えばあの拳闘の話。「本音の人生」気取るこの手の馬鹿達に迎合するのは、出来合いに、虚構にすがり生きる者達の特性だ。

 形にすがり、生身の人生を避け続けた者達は、生身を売りにする者のはったりを見抜けない。見抜いても、撥ね付ける度胸がない。

 怪僧に取り込まれた皇帝一家然り、画家くずれに支配されたドイツ然り、「荒行で真理会得」の真理教祖にひれ伏した坊ちゃん集団然り。吉本だってそうだった。

 
 生身の人生からの遊離が「高度化社会」のヒトならば、それは欠陥人間の別称に過ぎない。地べたには、どんな奴の足もくっ付いてなきゃ駄目なのだ。単純な真理だ。

 「知性は、必然的に大衆から遊離する」

 その昔、左翼を気取る者達はおごそかを装い言った。馬鹿言っちゃいけねえよ。

左翼は崩れ、都市サラリーマンの群れになり終わった今も、この手の精神構造と自負は、何一つ変っちゃいない。

 経験じゃない、頭から入ったものを物神化し、振り回されてるだけの話。

 遊離する? 地べたを離れ、作為で出来た上昇志向の虚構にてめえ載っけてるだけの話だ。上昇志向の構造から垂れ流される、他所者製の知識をあり難がってるだけの話だ。

 それに乗っかり既得権にあり付く。その虚構を意識、無意識で分ってるから、生身の人生を怖れるのだ。生身を装うはったりに乗せられるのだ。吉本然りだ。アカデミズムの利権屋共とやり合う内に、自分もヘンになっただけ。大衆の原像なんて、外から繰り込むものじゃない。生身の人生生きる中、自分の内側から見つけるだけの話じゃねえか。


 本音を気取る馬鹿の尻馬に乗り、揉み手しながら金だけせしめる。自分の本音じゃ闘えねえインテリ・知識人、マスコミ共の毎度お馴染みのやり口。いらなくなりゃ、無反省にポイ。

 関西人が東京に来て往々増長するのは、東京人が、東京そのものが空っぽな虚構に乗っかってるからだ。本音装うはったりと、虚構に生きるズルシャモ共と。

 放送は、虚構が揺りかごのズルシャモの巣。だがそれは、相似形で埋め尽くされた虚構の娑婆の一類型に過ぎない。たまたま知ってたから、はらわた煮えくりかえる思い散々してきたから、言ってみたまでだ。