親のため一肌、仲間のため一肌。

 これは、子供が普通に備えた感性だ。感性の海で普通に育てば。


 この種の感性は乗せられやすい。利用されやすいということ。

 そのこととこの種の感性の、あえて良さと言っちまおう―それは別ものだ。



 皇国少年の感性沁みついた吉本隆明はかつて、戦後ころりと手のひらかえしたインテリ・大人に憎悪を感じたという意味のことを言った。


 時代・社会を真に受けた特攻帰り・予科練帰りの心情も、そんなもんだったろう。


 俺は読んでねえが、大江が書いた『政治少年』とかいう小説があった。それも多分、そんなこと書いたもんだろう。もっともらしい面する前の、田舎の餓鬼の心情書いた大江の小説は、面白かった。苦しみゃよかったんだぜ、そこで。イワナミ風なんかに、ころりと寝返らねえで。



 社会と時代がとんずらしても、抱えちまったもの離せねえ奴に、俺は共感する。

 そいつの「個」の始点は、そこにあるからだ。何かに委ねず乗っからず、孤独の作業の中でなんかつかみ出す。ほんとにそこでかんだもんなら、どんなもんでもとやかく言う筋はねえ。賛成・反対は別話だ。


 少年達の不安と仲間意識を描いた『スタンド・バイ・ミー』なんて映画は良かった。一つ良くねえのは、「市民」に成長した主人公の愛惜の物語になっちまってる点だ。


 アメリカ映画が臭えのは、落ちにたいていフォーマットがある所だ。十字架ベースの大人の市民。


 餓鬼の頃の経験からも、最初からめざめてた奴なんてのは、100%信用しねえ。「知的」な親に言いくるめられた、こましゃくれた餓鬼。こういう奴に100%成長はねえ。どんなに世慣れててもだ。