俺が餓鬼の頃、『沈黙の世界』という学校巡回の映画があった。そいつは深海のことだった。


 俺は今、そいつは人間そのものだと思ってる。



 人間ってやつは、深い沈黙を宿してなけりゃ駄目なのだ。


 というか、この言い方自体ヘンなのだ。本来人間は誰でも、絶対底には到達できない深淵を宿している。そいつが人の実存って奴だ。あるいは実存の根拠なのだ。



 沈黙は理解されちまったらお終いだ。理解したと思ったら終わりだ。自分のことも他人のことも。

 その瞬間、自立の根拠は消し飛び、もっともらしい面だけ下げて魂の劣化が始まる。



 言葉って奴は、沈黙を切り裂く。知の優越、思想の優越、哲学の優越を装って。

 馬鹿こくんじゃねえよ。不安なだけじゃねえか。自分の、他人の沈黙を黙って見つめるのが。

 だから喋って安心する。喋らしてほっとする。理解して済ます。解釈して捨てる。勝手に食った気になって。


 凝固したものにすがらなきゃ納まりの着かねえ馬鹿達、抜け殻ばかり有り難がる痴呆共とは、黙っておさらばするだけ。


 誤解しちゃいけねえよ。ズルシャモみたいに黙り込めって言ってるんじゃねえ。無限の沈黙を宿した、てめえ自身の言葉を見つけろってことだ。これが俺だって言える言葉を。解釈するしか能のねえ糞虫共を、蹴散らして進む自前の言語を。


 真っ当に生きろってことだ。自分自身の魂に根ざして。

 こいつが共和制の、自立の根拠だ。