「名辞の世界」の外側

 そういや、死んじまった江藤淳が妙なこと言ってた。詩人の中原中也のことだ。


 「中也は、名辞の世界の外を言おうとしている」。こんな言い方だった。


 小林秀雄ってのも、中也について妙なこと言ってた。

 「中也には、普通人が必死で隠そうとするものを人に言いたい、伝えたいという衝動があった」。こんな言い方だった。



 これって思えば、当たり前じゃねえのかい。中也が言いたかったって所は。それ言わなくて、何が表現なんだい。



 江藤にしても小林にしても、ほんとの所は「手習いの領域」を文学と思い込んでたんじゃねえのかな。言っちゃ悪いが。

 歴史の中に蓄積された言葉の世界。ヒントにするのはいいさ。言葉なんざ所詮、どっかで覚えなきゃ使えねえ代物。


 でも手本にしちまったんじゃ、駄目じゃねえのかい。それじゃまるで古今伝授、流派の継承と同じゃねえのか。利権がらみの。



 東京ってのは、そういう社会だ。正統なるものと、そいつにからんだ暗黙の利権が幅利かす―。江藤も小林も、なんだかんだ言ったってそこの住人、よい子だったってことだろね。


 共通なのは、体験を恐れてたな。時にゃ軽蔑の風も装って。東京もんのぼんの三島なんかもそうだった。



 中也の面白さなんて、「名辞の外」があるからだぜ。東京仕立ての言葉じゃない、郷里の風土仕立ての言葉。最初の頃の大江健三郎にも、似たことが言えた。



 そういや学生運動用語なるものも、連中の思考も行動様式も、全部が全部「名辞の世界」の臭いがした。


 ヘンなもんだぜ。ハンタイセイ、カクメイ唱えた連中が。ガクセイだから手習いの領域ってば、当たりめえの話か。


 ならそんなもん、懐かしがっちゃいけねえな。いい大人が。