ヒトは、一人ひとりがエネルギーの塊だ。

 こいつを、もっと早く自覚してりゃ良かったと、しみじみと思う。


 そうすりゃ凝固した、あるいは凝固しがちな思いなどに、そうひっぱられずにやってこれたろう。


 俺とは別の存在の嫁さんの思いを、もっとまともに受け止められたろう。



 嫁さんは俺にとっちゃ、一個の理不尽だった。

 そりゃそうなのだ。一個の独立した他人なのだ。しかも女という、俺とは別種族。


 こいつを理解するなんて無理だった。とりわけ若い頃は。今でってそうだが。

 自分の経験・知識の埒外の存在。そいつを頭でとられて納得する。あり得ねえことをしようと苛立ち、あげくは毎度ぶつかり合った。


 腹じゃ小馬鹿にしつつ、黙って呑み込む。イエという制度がありゃ出来るだろう。男のふところに金が転がり込む、実利の仕組みとセットならば。


 俺に出来るのは、嫁さんの思いを気持ちで感じてエネルギーを割くことだけだった。頭じゃなく、心で受け止めて。馬鹿げた衝突避けるためにゃ。


 自分の一日のエネルギーを、心が感じた配分に応じて割く。それが真っ当というもんだ。生活者にとっちゃ。


 人間はこの意味で、どこまで行っても生活者じゃなきゃ駄目なのだ。でなけりゃヒトというエネルギーの塊は、観念、理想、思い込みに引っ張られていびつの世界しか築けない。


 あかの他人は言うだろう。利益と効用の視点から。「何かを成し遂げるにゃ犠牲は付き物」。


 「成功」者が猛烈な歪みを心の内に宿してた例は、枚挙にいとまねえ。というよりほとんどの者達は、何ものかを踏みつけることで何かを生み出す。「俺だって人間だ!」。そう従者に悲鳴上げさせたドストエフスキー。家庭を家族を歪みの淵に追いやり、芸術至上を貫いたのピカソ


 有名どころを挙げずとも、資本家、実業家、左右の政治家・活動家、先生、宗教家、出世至上のサラリーマン…。有名無名こき混ぜて、まるで普遍にゴロゴロ存在してるはずだ。


 他人のことはいいとしよう。一先ず。

 だが、こと人間学の生成においては、人生上のその手の歪みは、俺はあっちゃならねえと思ってる。


 考えてみるがいい。その手の歪みと引き換えに生み出された宗教・思想。そいつがどんな結果をもたらすか。

 上辺の理想に糊塗された歪んだ内心。そいつは思想なるものの内奥に、必ず反映される。あり得ねえことをあり得るもののごとく示す等々の形で。こいつが実生活を支配し始めた途端、歪みは顕在化するのだ。直近じゃオウム。どこの歴史も、そいつの繰り返しだったじゃねえか。


 ここで延々書いてるのは俺の人生の反省の弁だが、俺が感知する思想の基底の事柄でもあると思ってる。

 自分にとっては異星人のごとき嫁さん、そして子達の暮らし。この世界を真っ当に内に収めた思想じゃなきゃ、真っ当な社会の基本思想にゃ絶対なり得ねえと俺は思ってる。

 こいつは、自己認識の問題に戻る。人は一個のエネルギーの塊。身近な人の思いを心で受け止め、それに応じてエネルギーを割く。有限な一日のエネルギーを。そして、それによって生成される自分を自分として日々を生きるのだ。あかの他人がなんとぬかそうとも。まずはこいつがスタートだ。


 「一番大事なのは、愛する者のために時間を割くことだ」

 これはあるメルヘンの一節だ。十八の俺は、こそばゆいメルヘンのこの一節にゃ、リアリティを予感した。予感したまま実践できねえクズ野郎だった。


 吉本隆明がかつて言った「大衆の原像」。その核心もこいつだろうと思ってる。吉本は明示しなかったが。というより出来なかったんだろう。その頃は。その後もずい分嫁さんとやりあったとか。こいつについちゃ、批評家面して言える立場じゃねえ。