俺が団塊なるものを駄目というのは、批評の世界に逃げたから。生身の世界から。


 こいつらは怖かった。戦後の暴虐が。


 裸一貫の親父達。

 職人世界にも町工場にも、どこにもいた。

 油まみれの親父達、泥んこ土方の親父達、映画屋撮影屋等々、作ることに憑かれた親父達。


 怖かったぜ、こいつらは。

 なのでビビッた。

 ビビるだけで、怖さの奥は知ろうとしなかった。


 知るってことは、巻き込まれるってことじゃねえんだぜ。

 上っ面の自負プライドは、どぶに捨てなきゃ付き合えなかった。

 これが出来なかった。


 なので皆「お勤め人」になった。平均値の。

 というか、平均値じゃなきゃお勤めはできねえ。

 実体のお勤め人だけの病気じゃねえのは、裸で娑婆に飛び出して散々出くわした喜劇だった。


 いいんだよ、平凡・平均値。

 でも平凡意識し平凡強要したら、そりゃもう平凡じゃねえ。利権だ。


 

 たまたま色々やってみて、たどり着く平凡。

 仕事ばかりにこだわっちゃいけねえな…。



 否応ねえ苦痛の中から、後ろめたさの中からつかみ出す、自力の平凡。

 こういう平凡は、他人批評しねえよ。足ひっぱらねえよ。差別しねえよ、立場持ち出して来て。


 知識知性は括弧に入れて、生身と付き合う。

 そうすりゃ知識も生きることはある。

 文系理系無関係の初歩的真理。


 真っ当な発見じゃなきゃ飯くえねえ理系分野は、俺は知らねえ。(そこにもいかさまあるだろけどね。研究のボス等々の)。

 文系の娑婆ではっきりしてるのは、ここは未だ天動説。

 楽だからね。生身見ねえで済ますってのは。

 自分の馬鹿さや思い込み蹴散らされ、悶絶の苦しみ味わわなくて済む。


 科挙のプライドでやってけるからね。ジョシ大出ればあたしはエリートのちんころ姉ちゃんや兄ちゃん。それが組織の不文律。既得権と当然絡む。絡むからそうする。



 俺が団塊なるものを駄目というのは、批評の世界に逃げたから。生身の世界から。

 生身放逐したから。娑婆からも脳内からも。

 自分解体する知性に気が付きながら、ありあまる時間と金を豚の昼寝に浪費したから。昼寝邪魔する奴を放逐したから。「知性」のズルさ動員して。




 いつの時代も同じだぜ。歴史ひっくり返してみりゃ。古代中国宦官社会も、幕府なる組織社会も、その種の性根払拭できねえ、できねえばかりかますます磨く江戸東京の腐った娑婆も、そいつと表裏の糞田舎も。



 変わるべきは自分だ。

 娑婆が変らねえからやらねえじゃ、死体で私は生まれましたってのと同じ。

 利権で渡っちゃいけねえよ。死体の分際で。生身のニンゲン押しのけて。