俺は、闘争心ある内は俺で居られる。


 闘争心で何と闘う? 誰と戦う?

 「俺」と闘う。括弧付きの俺と。


 人間、怒りを燃やすのは、括弧付きに対してだ。

 こいつは許しちゃおけねえ。放っちゃおけねえ。

 最たるものは、括弧付きの自分。


 他人に怒りを向けるのは、ひがみだ。

 「他人」に怒りを向けるのは、真っ当だ。


 自前じゃねえもの、えせのもの、虚栄のもの。あぐらかくもの。

 こいつに軸足置いた奴憎悪するのは、真っ当だ。

 真っ当な自分においてなら。「自分」じゃねえ自分においてなら。


 返す刀で自分を斬れとは、このことだ。括弧付きの自分を。


 人民の中へ。下放。山村工作。自己否定。

 結果はすべて悲惨。すべて愚か。


 だが、しかしだ。この愚行は、絶対避けられねえプロセスだ。一人ひとりの人生上のプロセスじゃ。


 自分探り当てなきゃ、何に対して憤る? 何を根拠に怒る? 何を一体変革するってんか?


 括弧付きじゃねえ所から、括弧付きのものを見る。

 この眼なくて、何が一体見えるってんか?


 社会科学も自然科学もまるで変らねえ。この一点じゃ。


 共同幻想、共同主観。なれ合い。こいつとつるんだ人文「科学」だけが、時代、社会の提灯持ちになる。


 提灯持ちじゃねえ科学。こいつは一体どこにあるんだい?


 あるさ。それなりに、始めから在る自分の上に。親が真っ当ならば。
 そう苦労せずつかめる自分の上に。真っ当に闘う者同士の中ならば。
 しょうもなしにやる自己否定の上に。馬鹿な「俺」叩き潰すための。


 自分でやるしかねえんだぜ、結局。幸運、偶然なんぞ、当てにゃできねえから。

 こいつ死ぬまで続けてりゃ、そう老いもせずにくたばれるぜ。

 
 断わっとくが、原始に帰れなんて話じゃねぜ。

 真っ当な職人、真っ当な科学者、真っ当な絵描き、真っ当な生活人。誰だって普通にやってることだ。

 ちょっぴりでも、真っ当なもの作ろうと思ってりゃ。