国営放送のBSとやらで、西欧追随植民地主義ニッポン追っかけた番組見た。明治維新から大正期までなぞった番組。


 俺に「大アジア主義」思い出させてくれたので、文句はつけねえ。次の一点除いて。


 肝心かなめのこのクニの民衆が、人民がまるで出て来ねえじゃねえか。


 こいつ出なきゃ、まるで無理だぜ。なぜニッポンはアジアの解放運動に組みせなかったか。今も組みせねえのか―。番組テーマのこの謎解きが。
 中国、朝鮮、インドの民衆運動は話のダシに出しといて、なぜニッポンの民衆運動はずっぽり抜け落ちるんかね?


それが謎解きの答えってんなら、随分な洒落じゃねえか。


こいつにゃ触りたくねえ。

この手の意識働く限り、番組中であんたら言ってる「このクニのミンシュは上っ面」。こいつは永遠だぜ。


 田舎の歴史ひっくり返しても、すぐ分かる。このクニの民衆・人民はいまだ日陰者。土中に葬り去られたまま。


 サヨク運動持ち上げろなんて話じゃねえぜ、俺が言ってるのは。その種の運動・現象に投影される民衆の、人民一人ひとりの実存って奴だ。仕組みの中じゃねえ人生って奴だ。人一人が、地に足付けて真っ当に生きるって奴だ。


 こいつと真っ当に向き合わねえ限り、孫文も共感した大アジア主義の本質も、右翼頭山の限界も、今に至るこのクニの「ミンシュ」の上っ面性の呪縛も解けっこねえぜ。


 以前俺は、田舎の歴史掘ってて思った。幸徳秋水はなぜいまだに日陰者の罪人なのか。幸徳の裁判に骨身削った者達は、なぜ今も日陰者でしかねえのか。


 何度も言うが、こいつは左翼持ち上げろって話じゃねえぜ。こいつら日陰者扱いしてるうちは、人民の実存=あんたや俺の実存も表の娑婆じゃ存在しねえって話だぜ。いまだ果たせねえアジアの民衆との連帯も、夢のまた夢って話だぜ。ミンシュも自由もインターナショナリズム絵空事って話だぜ。歴史は総て、人民を腕組み見下ろしの「殿サマ知性」の、プチブル共の言葉の遊びってことだぜ。