俺は、ムラというものがいいものだったとは思っちゃいねえ。良くも悪しくも「トータル」なこの世界は、息が詰まる世界でもあったからだ。因習が支配する、百年一日の、にっちもさっちも行かねえ世界。だから若者達は「明るい外界」を目指した。学生という、「約束された身分」をまとえる者はとりわけ。この「約束」なるものが、近代化の明治が用意したある虚構に担保されたに過ぎねえものなのは、当時も今も明らかだ。


 虚構。こいつは分かり易く言い換えりゃ、「頭の良さ」の神話と言っていい。虚構の尖兵となったのは、トータルな人間養成の芽を宿した草の根教育(私塾、寺子屋)に取って代わる、小国民養成の学校教育だった。実質的に今へと続く明治の学校教育が、寺子屋・私塾の匂いを残した「学制(庶民の実学)」の理念から小国民養成に転換し出したのは、この国が近代化と国体を明確に意識し始めた1880年代というのは、忘れちゃいけねえ。


 明治政府による上からの組織的近代化と、「有用な人材」の養成・調達。そのための仕組みが「エリート養成」の虚構であり、「頭の良さ」の幻想だった。
 戦前、「頭の良さ」の幻想に浴することが出来たのは地主等々の、経済力に支えられた一部の特権層の子弟に過ぎなかった。その他大勢の水呑み百姓の子達は、はなからあきらめてたのだ。あきらめる所に、相応の力など生まれるはずもなかった。


 褒める教師と褒められる「頭の良い」子と。戦前も戦後も多数を占める馬鹿な「良い子」達は、こうした虚構に気付かないまま、あるいは気付かない振りをしたままムラを出た。「後ろめたさ」の太宰治などは、気付かぬ振りをし通せなかった、ほんの一握りの「脱落者」に過ぎなかった。


 そのムラに舞い戻るしかなかった、「頭の良い子」としての『村の家』の主人公。主人公に「十年は沈黙しろ」と言った父親。そして、大抵は読み飛ばしてしまう些細なやり取りの意味に気付き、注目した吉本隆明。その思想としての意味あいは最低限嗅ぎ分けることの出来た、1960〜70年代初頭の田舎出の学生達。


 俺は、「知性」なるものを身に付けた者達の思想の出発点は、やはりここにあったと思ってる。人工の明治、作為の近代が生み出した、否定者であるはずの左翼にさえ取り付いた、種々の虚構と幻想(生き方の上げ底)。その嘘の皮を引き剥がすにゃ、一度は「トータルな世界」に「落ちこぼれ」て、生身の自分の実体を味わい直してみる、そのプロセスが嫌でも必要だったと思ってる。そのためにゃ、理解するんじゃない感じるプロセス、生身の現実を生身の力で生きるプロセス―、否応無い沈黙の時期と過程が必要だったのだ。俺は今、俺自身の経験からそう思ってる。


 『村の家』の父親が、このことを明確に意識してたかどうかは知らねえ。息子のためのある種のカモフラージュもあって言ったのかも知れねえなと、今は思ってる。だが「自分の実体を見極めろ」。この意味は明確にあったんだろう。少なくとも吉本はそう感じたのだと、当時の俺を含む田舎出の学生達はそう思ったのだと感じてる。


 この国の悲劇―というより今となっちゃ喜劇は、生身の肉体から沁み出す地に足付いた思想が、右からも左からも生まれなかったことだ。皇国と儒学戴く訓古(正しくは言偏に古)学=国家主義含む右翼思想と、西欧戴く訓古学=左翼、民主、市民主義等々の思想。そのどれもが、生身の暮らしに根ざさず虚構に根ざした、エリート臭に満ちたものに過ぎねえことは明らかだった。吉本にとって。太宰同様、「上げ底」の後ろめたさを忘れなかった田舎出の学生達にとって。


 生まれるべき実体の思想の構築は、エリート共の手垢に満ちた言葉以前の、感性・嗅覚の世界から始めるしかなかったのは、この国の「知性」の上げ底構造からして明らかだった。(続く)