俺は、良心の仲立ちの神ってのは、ありと思ってる。


 人の心の仲立ち・触媒。触媒は強要しねえ。

 ただ在ることに意味の神々。この手の神にケチ付けるいわれはねえ。


 ほんとに生きてる信仰ってのは、地上どこでもそんなもんだろ。上っ面、神の名前どうでも。


 俺が蹴飛ばすのは、知った顔したがる神、世俗の代弁者で飯食いたがる「神」だ。


 俺はこの国は、いまだほんまもんの神探り当ててねえと思ってる。

 そのシンボルが、遺制引きずるガク園国家のチンピラ応援団に守られ、心の御主人面して居座る「靖国」だ。

 わが胸に手当てる西郷さん祀ってねえのは、偶然じゃねえさ。がらんどう、からっぽ、良心は無縁、おイエ・制度の守り神。『ビルマの竪琴』だったか。水島は、死んでもここにゃ行き着かねえだろ。



 俺は宗教改革ってのは、クリスチャンの専売特許じゃねえと思ってる。こいつはある時期、どこにも生じるに決まってる魂の必然だ。


 虚構の打破。虚構に変移しちまったものの打破。上っ面の免罪符の打破。良心ヘの回帰。


 構造・経済にのめり込んだマルクスが、置き忘れちまったもの。中国、朝鮮にだって、いつか起きるだろ。アタマでっかち引きずったままのこの国の左翼くずれ、知ってか知らずか白人迎合のクリスチャンにも必要だろ?


 良心なんて、ケモノの現実の中じゃ微々たるもんだ。それでも、あるとねえじゃ大違い。永え歴史の中じゃ。「人はパンのみにて」ってのは、そういう意味だろ?
 

 微々たるもんが「神」の本質。

 選別しちまえ。神と詐欺師。微々たるもん触媒にして。