六年前、完ぺきに食い詰めるまで、俺は入れ込む習性捨てられなかった。


 今も結構残ってる気がするが、食えねえなと思った途端、すっぱり切り上げられるようにはなった。


 歴史含めてこれ以上、他人の人生ほじくったってしょうがねえ。こいつ自分に言い聞かせてからだ。自分掘れやと。何度も言ったけど。


 金にならねえの、やりゃやるほどゼニ無くすの承知で、随分紙屑作った。実際紙屑だった。俺の気持ちに残った分除きゃ。わずかだが俺なりに見えたものはある。嫁さん、子供泣かせた代償に。


 習性捨てられなかった頃、俺は結構人に救われた。銭金含めて。

 元山林労働者の一徹アカハタ親父。土建屋とその連れ合い。無頼の親父とストリップ小屋やってた二号さん…。どっか分かるんだろ。俺が貧乏こいてるの。そっと包んでもらったことは何度かある。その金は、全部嫁さんに渡した。

 この人達にゃ感謝だ。もうほとんどあの世だけど。



 比べるのもナンセンスだが、一つはっきりしてるのがある。

 いわゆる団塊以後にゃ、この種の人々は皆無だった。実際は十数年ぐらい上の年代からだが。この辺はまだ皆無とは言えねえ。

 「団塊」。こいつらがくれたのは、岡の上の評論だけだった。東京時代、大阪時代、糞田舎時代一貫して。頼みもしねえのにくれるとこだけ一緒だった。


 断っちまったろね。こんな奴らが「くれる」と言っても。


 アタマん中まで組織化されちまった者達。こいつらに言う言葉なんざ存在しねえ。こいつだけは、六十年近けえ人生で嫌でもつかんだ。