「力」と「序列」

              (初出 05/20/2007 消しちまったサイトより)


 俺がサラリーマン社会とおさらばする一つのきっかけは、土建屋宰相と呼ばれる男の追い落としに関わったことにある。



 関わったといったって、そんな力のかけらもあるわきゃ無かった。御用の捕り方の陰にいて、こっそり相手を撮るだけの「公正不偏の取材者」だった。首都圏の放送会社だけでは手が足りず、関西方面から借り出されただけの話。



 奴は、奴らはいつパクられるか、いつ捕り方は黒塗り車で乗りつけるか。



 あかの他人の門口で、そんなもん延々と待ってりゃ、あほ臭くなるのは当たり前の話だった。



 俺には、納得の行かないことがあった。コソコソ姑息という感じがしたのだ。土建屋親父の追い落とし方が。「規則だからそうします」。そういうのを淡々と追っかけるだけのマスコミって、一体何だい? そんな他人事言わなかったが。



 帰って、社報とやらでは言った。俺達に、コネ・ツテ・閨閥無しの我流でのし上がった親父を、追い落とす資格はあるのかと。案の定というか、黙殺され小馬鹿にされただけだった。チンピラカメラマンと。言ってくる奴はまだマシだった。



 



 土建屋親父の追い落としは、俺にはわが身に降りかかった、次のこととダブる。



 ある時俺は、新人記者と仕事をした。いっちょうユニークな画作ろうや。色々アイデア出して、ああしようぜ、こうしようぜ。結果は大いに受けた。いつもは画作りに厳しい、職人気質の記者の一人が、こういうカメラマンが出るのを待ってたと言ってくれた時は、素直に嬉しかった。



 だが翌日、どんでん返しは待っていた。この記者が、俺と一言も口をきかなくなったのだ。そして現場の情報や、取材の趣旨を一言も言わず、ああしろこうしろと言うだけになった。



 これをやられたらカメラマンはお手上げだ。「そんな画、要らないよ。取材の趣旨に合わないから」。趣旨と情報は、事前にせっせと集められる記者が握ってるに決まっている。



 知らぬ者には細かな話だが、こいつには当時の技術革新とやらも、大いに関わっていた。話は、ボタン一つで私にも映せますのビデオが入った頃だった。ばかでも撮れりゃ誰でも一緒。現像代もかかる高価なフィルムと違って、言われた通り延々撮らされても、どこからも文句は出ない。その画は要らんぜ、こっちが大事の一言を言う最後の根拠も、カメラマンには無くなる。



 カメラ屋は、マイク握るサル回し記者のサルになった。その後はこれが、「規則通り」の仕事となった。その頃アメリカではビデオカメラの撮影者を、オペレーターと呼ぶようになっていた。



 



 俺はSという新人記者を見て、ああこれが東京だと思った。Sは、俺がいた放送会社の系列の、M新聞の役職の息子だった。当時はオイルショックとやらの不景気が尾を引き、都落ちなど断固拒否のはずのこの種の東京人が、関西にも流れ込み始めていた。放送は、収入も体質も彼らに見合う好適な場所だった。



 俺はいわゆる東京人ほど、コネ、ツテ、学閥のたぐいに親和性のある者達はいないと感じている。ついでに言えば、今居る俺の田舎などは、その後追いなのだ。



 俺は何度も、記者への「昇格」を誘われた。



 馬鹿にするんじゃねえ。



 俺には、地の人間共の集まりのカメラマン部屋が似合いだった。元請け、下請け、孫請け、アルバイト。大阪特有の露骨な差別の言辞は飛び交ったが、“差し”の勝負を忘れる者はなかった。



 力で押しまくるあの親父を、てめえの力で押し返す気骨が少しでもあれば、時代はちっとはマシになっていたと、今も思っている。