これを言ったのは、俺の田舎の教育の仕組み組み立てた、ある人物だ。


 明治の前期、1880年代にこの県の教育の仕組み作った男。ある旧制中学の歴史掘り返した時に偶然出くわした、今となりゃ歴史資料の整理屋ぐらいしか覚えちゃいねえ人物。


 「優秀な教員を集め…自らバイオリン使って唱歌を教え、雨中体操場を設け…亜鈴体操、球竿体操を指導…小学校教員に…心理学を教授。…簡単な物理機械を持参し、…金石、動植物の標本を採集して…各学校の教材教具を整備し、師範学校は新教育の源泉となった。…高給で全国から人材を招いた。…」。三十四年前に出た田舎の人物紹介本にゃ、こう記されてる。


 男は幕臣のせがれだった。維新に渡米、帰ってから全国各地の中等教育の組み立てに当たってた。


 田舎の教育史の資料集にゃ、この人物の書いたものや演説が載ってる。そいつを見ると一目瞭然なのは、言ってることが福沢諭吉の『学問のすすめ』にそっくりなのだ。

 別に驚く話じゃねえ。民権・地域主義と国権・集権主義の闘争の中で、教育が今へと続くヘンなもんになり始めるまで、福沢の功利主義なる考え方が、「何のために学ぶのか」の柱になってたのだ。


 その頃の歴史見る時、ひとつ気ぃ付けなきゃいけねえのは、当時の者達の多くは、「○○さんの影響で…」なんて上っ面で生きてたわけじゃねえってことだ。著名な福沢先生の説いた西欧思想の影響を受け…なんてのは、頭でっかち・お勉強・観念でしか事象をとらえられねえ、今時のセンセイ・インテリが言うだけの話だ。


 その頃は西郷さん始め、あまたの下級武士の出の者達は、たいてい福沢の実学功利主義なるものに共感した。先ず何よりも自分富ますため、自分の自立という意味の立身のため勉強しろ、生きろ。


 この地方の、今で言う地域おこしの学校設立に汗ながした元田舎藩士の親父も、雪深けえ田舎の寺子屋の先生生徒も、幕政の景気いい頃にゃうだつあがらず、庶民と変わらぬやくざな暮らししてた、勝海舟ら元下級幕臣達も、皆共感したのだ。俺の田舎で教育に着手したこの人物も、そんな幕臣の一人だった。


 とっ違えちゃいけねえのは、この手の人々は西欧思想の理解を通じて福沢思想を理解したんじゃねえってことだ。そんな暇も知識も悠長も、あるわきゃなかった。彼らにあったのは、いつの時代も存在する民衆の暮らしの感覚、感性だったってことだ。


 彼らは影響受けたのでも、心酔したのでもなかった。ああなるほどそうだと、納得しただけなのだ。共感しただけなのだ。自前の感性に根ざして。


 彼ら下級武士も民衆も、口にゃ出さぬがよく分かってた。感じてた。幕府統治下の学問道徳・道理なるものが、一体なんぼのもんなのかを。もっともらしい言説が、ただひたすら二世三世・家柄護るためだけで、庶民の創意や意気や暮らしのためのものじゃねえってことを。

 くすぶる思い、真っ当な感性に筋道付けたのが、九州の小藩で割り食って、門閥制度は親の仇と怒りに燃えて西洋思想吸い取った福沢の、その頃の著作だったってことだ。


 話は最初に戻る。「上人は自分のために為し、中人は人のために為し…」(下人は…ってのもあったが、そのくだりは忘れた)。これを言ったのはこの人物が、燃え盛る自由民権運動に血気にはやり身を投じた青年達を批判する時、言ったことだ。


 天下国家言う奴にろくな奴はいねえ。自分の足元見ねえで、自分の仕事見ねえで、自分の暮らし見ねえで、一番肝心なもの小馬鹿にして走り回る。そんな奴は、自分も他人も不幸にするクズ野郎だ―。そんな演説のくだりで出た言葉だ。



 その後時代は「天下国家は『国体』の専任事項、お前ら庶民は頭垂れて働け」という時代に、そういう教育の社会に突入していく。


 もう時間ねえから、飯の食い上げになるから、今日はやめる。一つ言えるのは、福沢が民権突き放し、国権の肩入れに転換してったのも、心情的にゃこの辺だったろなと思っている。


 結論だけ言や、福沢も当時の青臭え民権のガキ達も、こらえ性無かったってことだと思う。こっちが駄目なら、「あ、そっち」。そんな駄菓子選ぶようなもんじゃねえだろ。思想なんて。


 「上人は自分のために…」。こいつを単なる銭ゲバじゃなく、天の下黙って働くだけの庶民の倫理じゃなく、真っ当な思想に持ってくにゃ、実生活のこらえ性が必要だったと俺は今、肌身に沁みて思う

 俺が職人言うのも、共和制言うのも、俺なりに馬鹿やり続け、家族に冷や飯食わせ続けた、クズ人生の果ての話なのだ。


(付記)
こらえ性のねえ自由民権のガキってのは、戦後の左翼、学生運動とイコールと思ってもらっていい。体制批判したこいつらは、批判徹底することなく、批判の矢自分に向けることなく、ゆえに実人生実感することなく、真に汗することなく、体制にすがり、思考感性停止して、豚のように生きた。なにもつかまなかった。つかまねえだけじゃなく、勝手に他人評論し、他人おとしめ、冷笑し、都合悪りい時ゃ素通りし、挙句に既得権の通帳と心中する性根しか残さなかった。
 勇ましがりの武勇伝吹聴し、生活小馬鹿にし、他人が汗して作ったもんにすがり付くのは、右翼左翼(政治主義者)共通の詐欺行為なのだ。
 ウソの巣箱の「国体」が真に必要なのは、小児病の自縄自縛から出ようとすらしなかったこいつらだと、俺は思ってる。

福沢のような、体よく乗っかるだけの、東京界隈にゃよく居る訳知り顔のじじい持ち上げる話じゃねえので、悪しからず。