勤勉って言葉好きじゃねえが、ほかに浮かばねえので使う。


 俺は、人は勤勉じゃなきゃいけねえと思ってる。何かを生み出すにゃ、嫌でも時間をかけるしかねえ。そうしねえと何も作れねえからだ。現実に。


 本気で何んか作ろうと思や、八時間労働もクソも無くなる。週休二日なんてのも、どこの世界の話だいとなる。「月月火水木金金…」なんて歌が昔あったが、お前らにゃ死んでも言われたくねえぜって話だが、こいつは往々、否応ねえ現実だ。真っ当に何んかやろうと思う者にとっちゃ。



 わが身振り返って思うのは、勤勉と自分ってのは密接不可分だったってことだ。「自分」は一体何なのか。結局ここに行く。アタマじゃねえ体感で、ぼ〜っと感じる自分の世界。自分の範囲。こいつ持ってねえと、勤勉は嫌でも奴隷労働に陥る。


 職人達が往々身を滅ぼすのは、短命に終わるのは、この境界が見えなくなることがあるからだ。一体誰のためにやってるんだい?


 こいつは結局体感で維持するしかねえ。やりたいからやってるんだ。ほんまもんの自分がやれと言ってるから、やらなきゃいけねえと言ってるからやるんだ。
おめえホントに「自分」なのかい? こいつ絶えず感じながら。
 

 それでも人は、奴隷労働に陥ることがある。身を滅ぼすことがある。それほどしんどいってことなのだ。自分ってやつ体感するのは。し続けるのは。その場じゃどうしようもねえ枠組みの中で。疲れの中で。時に襲う怒りの中で。若気の至り・ええ格好しいの勇み足の中で。見栄体裁も往々絡む自負の中で…。


 六十近いこの歳までずるずる生きた俺に言えた話じゃねえが、しっかり自分持ってたって、人は短命に終わることはある。それほどしんどいってことだ。自分の思い体現するってのは。


 だがしかし、どんなにしんどくたって突き進むしかねえ。本当の、ほんまもんの自分ってのは、勤勉の中でしかつかめねえからだ。自分信じるって意味の自信含めて。こいつは免許皆伝、つかんで終わりって奴じゃ絶対ねえ。勤勉であり続けなきゃ、棲み続けねえもんなのだ。自分の体に、心の中に。どんなに歳食おうが、経験なるもの積み重ねようが。


 労働者の権利。その真っ当な源。何かに向かい頭垂れて働くんじゃねえ、真っ当に胸張って共に生きる共和制の淵源。連帯の源。俺は全部こっからだと思ってる。