見栄体裁、上昇志向。こいつが何でいけねえか。

 自分じゃなくなるからだ。体感が壊れるからだ。


 人間はヒトと関わるから人間だ。言葉がいい例だ。関わりが無きゃ、言葉なんざ要らねえ。

 だからクセ者なのだ。言葉は。ヒトってもんが嫌でも前提になる。

 思想はひとり言なんてこいたって、あり得ねえ嘘っぱちだ。この点じゃ。


 だが確かにある。思い伝える言葉。社会に載っかる言葉。こいつは違う。確かに。

 見え体裁、上昇志向の言葉なんか典型の後者だ。テレビ見て、新聞読んで、分かったつもりの言葉なんかもそうだろう。


 この種の言葉は自己崩壊引き起こす。自分のつもりで言ったりすると。自分じゃねえ自分、あかの他人製の「自分」を、てめえとごちゃ混ぜるからだ。体感は当然壊れる。正確にゃ反乱する。体感は良心の在り処だからだ。ケツの穴こそばいいなんてのは、可愛らしい反乱だ。ひでえ時ゃ、自分引き裂き滅茶苦茶にする。


 前者を後者ですり替えた時。こいつ感じた時ゃ、ハタと立ち止まり胸に手ぇ当てるしかねえ。自己反省、自己批判って奴。


 こいつは苦しい。「イヤ俺は正しい」とウソの自分、載っかる「自分」が抵抗するからだ。こいつにゃ打ち勝つしかねえ。


 打ち勝つの嫌なら、苦しむの嫌なら、能面づらに、能面になるしかねえ。社会の側、カタチの側、権威の側、見え体裁・上昇志向の権化の側に、するりとすり寄って。


 こいつやったら二束三文の俺の人生、全部紙クズ。クズ野郎にしょっ中なりかけちゃ、自己反省。死ぬまでこんなもんとは情けねえが。


 俺なりにひとつ分かるのは、こいつはナマ身の娑婆でやらなきゃダメだ。禅寺教会、「知」の塀の中。二重の欺瞞があるだけさ。きっかけ位にゃなることあるから、全否定しねえけどね。一人ひとりの生かし方って奴だ。