吉本隆明は……「内心の言葉を主体とし、自己が自己と問答する」営為…を強調する。


 先日ある新聞の文化欄に載ってた記事だ。吉本もこの辺だけは昔と変わらねえなと思う。引用が間違ってなけりゃ。色々引き出してあった他の部分はまるで共鳴しなかったけど。


 こんなこと、ちょっと気のきいた学校のセンセイなら誰だって言うさ。


 こういう言葉が青臭せえ俺の気持ちに沁み込んだのは、その頃の吉本は自分のしゃべりで、生き方で言ってたからだ。そう俺は感じたからだ。


 ここだけ抜き出しちゃえば同じさ。まるで別の人生で給料もらってるセンセイが、アタマでこねた言葉と。文の流れの中に漂う匂い。こいつとセットじゃねえと。体感って言い換えてもいい。体ん中からにじむしゃべり。暗い汚ねえアパートで、そいつ感じながら、嗅ぎながら読む馬鹿学生。


 流行語だった自己否定の、俺にとっての根拠もこれだった。


 頭ん中、ハエのように飛ぶ上っ面の言葉や思いかき消して、自分に立ち返る。自分の胸に手ぇ当てる。頭でっかちになって失せかかった体感、探り戻す。薄暗い、汚ねえ部屋は似合いの場所だった。


 体感に立ち返る。どんなもんに出くわしても、ああ、あれはそういうもんなんだなってスタンスに、生き方に立ち返る。あちら側に寝返らねえ心。心二つになるは悪しきことなりなんて、昔誰か言ってた気するが、自己否定なんてのは、俺にとっちゃこんなもんだった。娑婆で続けるのは難儀だったが。ずい分ずっこけたが。


 何のことはねえ。職人仕事って奴なのだ。馬鹿やってるなと分かっちゃいるけど、捨て切れねえ思い。内心の言葉なんて、そんなもんなのだ。その持続なのだ。ヘンなもんで正当化しねえで、最低限の暮らしぶっ壊さねえで持続さす思い。職人魂ってのは、こういうもんだと思ってる。上っ面、どんなもんでもだ。