男とは― (初出 10/19/2006 やめちまったサイトより)[クソ食らえインテリ・小市民(知性のウソ)]
昔読んだフランスの童話的小説に、大事なのは愛する者のために時間を割くことだとあった。なるほどと思いつつ、メルヘン趣味だろうとどこか思っていた。
これがリアリティのある話で、実行するには相当の覚悟と闘争心が必要なことは、この頃よく分かる。
たいてい人は、「愛する者」はないがしろにする。自分の体を含めて。仕事優先? 愛なんかとは縁遠いものへの献身。何を本当は愛しているのか。
時間を作る。ひねり出す。家庭のために。自分のために。
「仕事もできない男に 家庭など守れるはずがない」という歌があった。「関白宣言」だったか。そりゃそうだなと思いつつ、なぜか反感が先に来た。
私の知人の男は、俺が稼いでいるからと言って、妻や子を前にして一番うまいものを食っていた。子供達のうらめしげな目が気になった。偶然なのか、彼も九州男児とか。肉体労働者なら、握り飯一個余計ぐらいはありだろうけど。
生活、家庭をダシにするのは支配者、資本家のお家芸ではないことも、歴史を掘り返していてよく分かった。田舎のある生協系の組合史をまとめた時のことだ。
日本の労働組合は永年、組合員家族に還元されるはずの生協活動の上がりを、闘争資金などに流用していた。戦前はことにそうだった。政治的なところほどそうだった。補完的活動? 彼らが、この種の活動を下位に見ていたことは、よく分かった。
結局彼らに、護るものなど無かったはずだ。立身出世の裏街道。左翼衰退の要因だろう。
腕を組んで人を見下ろし、暮らしを見下ろす。自分は体を使わない。この種の人々は概して、「社会のため」を掲げる所に多い。労組、マスコミ、ある種の組合、企業等々。政治家は言うに及ばずだ。
結局、男とは何かの話。社会への共同参画? そいつもちと、違うような―。