一人ひとりの敵は今もイエ


 打倒すべき敵。それは仏作って魂入れずのたぐいの、がらんどう生み出す制度・仕組みだ。


 権威・権力を、それとつるんだ既得権者(金持ち)を維持するための制度・仕組み。体よくそれを理由付ける精神・道徳。


 明治国家は巧妙かつあらかさまに、この精神・仕組みを手盛りした。お手盛り? 頭でっかち共の創作物ってことさ。


 こいつに一見リアリティ吹き込んだのは、国家の相似形のイエだ。暮らしに食い込む分、始末悪りい。


 都会人は馬鹿だから、自分達は古臭せえその手の制度から解放されたと思い込む。精神・魂、何一つ変えねえままお上り。河岸代えたただけなのに。元々都会人の江戸っ子・旗本は? 一心太助・封建の提灯担ぎだべ。


 教養主義者(99.99%の都会人・インテリ)は馬鹿だから、都会は進んでる、田舎は遅れてると単純に信じる。都会は市民は、解放されてると信じてる。化けの皮、相当はがれた今でもね。


 制度・仕組みの打倒。こいつは、自分に巣食うその手の性根の打倒と対だ。がらんどうの国家と闘う。返す刀で自分と闘う。それはこの国のほとんどの者の性根に沁み込んだ、見栄体裁のイエの仕組み・精神との闘いだと、俺は思ってる。真っ当にこいつやってりゃ、気付くはずだ。家住み替えただけじゃ、何一つ俺(私)は変らねえなと。実物の家、都会に住み替えようが、心の家、クリスチャンのたぐいの洋物に乗り換えようが。


 この国で内なるものと真っ当に闘った者。その旗手は、有名どころじゃ(有名どころじゃなきゃ事例にならねえからね)太宰治と俺は思ってる。


 太宰は田舎の大地主の出の、ふにゃけたぼんぼん野郎だった。だから吉本隆明も小馬鹿にした。その辺が形(貧乏・下町・労働者持ち上げの心理)から抜け切れなかった吉本の、左翼・インテリ・都会人的馬鹿さだと俺は思ってる。


 人間大事なのは、「善」なる存在(例えば幻想としての労働者)にすり寄ったり、「進んだ」存在(例えば開明の市民)に乗り換えたり、なり切った振りすることじゃねえ。本当に大事なのは、今ある自分との真っ当な格闘だ。ぼんぼん野郎だろうが、労働者・職人の、資本家の息子だろうが。


 三十九歳で死んだ太宰が、こいつに勝利したとは言わねえ。有閑階級のぐうたら男。「生まれてきて済みません」。こいつ言い続け、クズの取り巻きに利用され、馬鹿な女にたぶらかされ、うかつに死んだだけだった。


 「俺はろくなもんじゃなかった。だが死ぬほど苦しんだ自分は本物だ。これだけは分かってくれ」。太宰こんなこと言ってたが、こいつは嘘じゃねえと思ってる。


 俺が太宰信じる根拠は、太宰の書いたものの底にあるあったかさだ。こいつは、冷え冷え虚構のイエに生まれた太宰が、必死で探り当てた宝もんだ。こいつ無えものは、どんなに「正しい」ふりしても空しい。空しいドラ、空騒ぎと聖書のたぐいも言ってるが、こいつは正しい。


 時間ねえから今朝はここまで。あったかさってのはトータルだ。こいつ探り出すのは、死ぬ気の自己否定と対だったはずだ。太宰にとっちゃ。こいつは地上に生きるどんな人間も、やらなきゃ本当はいけねえ作業だと思ってる。家庭のあったかさ。女の、母のあったかさ。それ必死で守る男。これが、古今東西延々続く暮らしの根底だ。


 実態はそこに行き着かねえまま死んだとしても、内に向かって「死ぬほど苦しんだ」太宰にゃ、嘘はなかったと思ってる。「遊び人のぼんぼん野郎」の域出なかったとしてもだ。