空虚と充実と人民の海

 ニーチェだったか。「空虚じゃだめだ。充実じゃないと」。そう言ってた。

 だが人間。言うことと実体ってのは、中々一致しねえ。手の届かねえ彼方のものの直観で、願望で終わっちまうことが大半なのだ。

 いらつくニーチェの心が、いらつきゃいらつくほど空虚の側に押しやられちまったのは、疑いねえ気がする。予感直観は、感じたそれが真実に近けりゃ近いほど、実体の自分の中の空虚を容赦無く照らし出す。

 ニーチェは、空虚の中で死んだ。必死にそれと闘いながら。追っても追っても向こうに行っちまう逃げ水追っかけ、とうとうくたびれ果てて狂って死んだ。そんなもんだろうと俺は思ってる。

 ニーチェがナチの始祖なんて言われるのは、この種の空虚、虚妄の臭いを、暴君的ないら立ちを、読む者が嗅ぎ取るからだろう。

 そんなこと言や、若さなんてのはすべてニーチェだ。ナチ共の始祖だ。

 若さは直観するからだ。凝り固まった、腐った現実の中にわずかににじみ出る真実を。真っ当な若さほどいら立つさ。凝り固まりつつある、固められつつある自分と、わずかに手にした真実のギャップに。

 こういう時に詐欺師は現れる。「埋め合わせ方、俺が教えてやるよ」。

 詐欺師共のやり口が、なんで案外通っちまうのか。それは虚妄の現実のアンチテーゼだけ持ってくるからだ。別の根無し草、虚妄を。毒を以って毒を制する。この手の素振り、やり口でね。

 観念(虚妄)ほど飛びつきやすいものは無いからね。虚妄にいら立つ早漏の、空っぽな心が。即効性だからね。

 生身の自分感じなきゃいけねえってのは、こういう時代さ。あったかさを、熱を、赤い血の自分を感じなきゃいけねえってのは。

 コペルニクスガリレオニュートンも、生身の自分が感じたもん理論にした。「あっ、あっち」「おっ、こっち」なんて、間抜けな精神の消費者共が駄菓子買うんとわけが違ったさ。

 「こういうのは秀才だけが、天才だけがなせる業」。

 もしあんたがほんとにそう思うんなら、あんたは根っからの偏差値頭脳・垂直官僚頭脳ってことさ。統治の学の朱子学に、その直系、今も続くの明治手製の狂育・社会体系に骨の髄まで洗脳されちまった―。

 洗脳・マインドコントロールの極地ってのは、このことさ。「みんな」がそう見てくれるから、私アタマいい(悪い)。

 下降志向がいいとは言わねえ。だが一度、精神の消費者のクソ根性捨てて、地べたはいずり回ってみるのはいいぜ。熱いもん自分で触ってみて、あっちっちと感じてみるのは。

 そのうち嫌でも見えて来るさ。ニュートンガリレオコペルニクスも、どこにもごろごろ普通にいるってことが。菜っ葉服着て、手ぬぐいかぶって。街にも野にも山ん中にも。

 そうなりゃあんたもお仲間入りさ。地動説の。自前の感性の、共鳴共感の、人の並立の娑婆の。

 周りがどんなに差別野郎(女)ばかりに見えても、いつか必ずスパッと感じる時は来る。俺は俺だ。だが俺は紛れもなく生きてる。共鳴共感が摂理の宇宙に。

 ぐじぐじ思わず、ニーチェも真っ当に汗流しゃ良かっただけだと俺は思ってる。身近な人大事にすりゃ良かっただけだと思ってる。そんじょそこらの親父のように。そん中で必死こいて思や、感じりゃ良かっただけなのだ。

 労働軽蔑のチンピラヒトラーじゃ駄目なのだ。地べた持たねえ篭の鳥、奇形児田母じゃ駄目なのだ。何でもありの人民の地べた。こいつが、紛れもねえその一部としてのあんたにゃ、俺にゃ、人間にゃ必要なのだ。こいつが真っ当な主体生み出す、人間の宇宙なのだ。

(付記)
 昔、パクられた奴は言った。「人民の海なんて無かった」。
 そんなこたぁねえさと、今俺ははっきりと言うぜ。自分の中の魂の海。掘り起こすほどに見えてくるはずさ。人民の海は。