民衆に根ざした新たな「箱もの」を

 ニッポン人は、入れ物を作れば自分をそれに合わせる――と伝統的統治者は思ってるべ。

 人の(命令の)せいにしながら実(物質的価値)を取る。実にいい仕組みなのだ。魂を相手に預けて(売り渡して)おくことで。国体から家に至るまで。

 受け身でいれば、受け身を装っていれば悪いようにはしないよ。国体やイエ(精神の箱もの)に合わせていれば。

 自分から動こうなんてユメユメ思わないことだ。必ずはみ出すからね。この箱を。

 「大人」になるとは、この箱に合わせること。昔は皆、それが伝統、習俗、習慣と思い込んでいた。それを壊しやがって。にっくき「戦後」。

 「吠えるがええ。今にお前らは行き場もなくなり、きっとまた俺の裳裾にすがり付いてくる」(三島由紀夫『絹と明察』)(注)セリフは多分違うけど、そんな意味合いの小説だったと思う)。

  麻生なんてそう思ってるだろうね。青年会議所なんて、この種の傲慢と思い込み養成所みたいなもんだ。二世三世のぼんぼん達の。

 彼らは別に天皇(制)に敬意を払っているわけではない。それがもたらす精神の箱ものに実用性を見出しているだけだ。だから「自ら動く天皇」なんてのが出れば、いともたやすく排除にかかる。後醍醐だの孝明だの。

 以前皇太子はテレビに向かって「うちの雅子が…」と、彼自身が感じる抑圧と窮状を訴えたことがあったが、誰もが沈黙して応えようとしなかったべ。「この言動は箱ものをはみ出している」。誰もがそう感じたからだろうと俺は思っている。

 皇太子も奥さんも、民衆の中では案外人気だ。正直者だからね。人はこういう所は直覚する。だが毎度それはひそひそ話のレベル。表面には浮上しない。

 民衆のこの種の「弱さ」を嗅ぎ取る統治者(旧体制)は、力で押しまくる。箱ものの復活を。石原、橋下、ヤンキー義家…。こいつらはこの嗅覚だろう。

 この種の流れを食い止めるには、言い方は悪いが「精神の別の箱もの」を用意するしかないと俺は思っている。人の優しさや正しさ等々。これを直覚する心情を持つ民衆の、その心根をしっかりととらえたところの。餌で釣る以上にリアリティある箱ものを。