(4) 平等、自由と男気(初出 6/07/2007)


 「男気」なる言葉は、日常の実感としては死語だ。



 俺にしたところでここ四半世紀超の間、比較的純な形ででくわしたのは、仕事上のピンチを救ってくれたある土建会社の親父ぐらいだったと感じている。落選してさっさと東京に戻っちゃった、当時人気の「改革」知事を悪しざまにこき下ろす親父だった。



 この種の言葉や感覚が、せいぜい子供漫画の中にしか生き残れず、たまにあっても地場の泥んこの「保守」の中にしか見出せないのは、真面目に考えるに値する話だと思っている。



 知性なるものの口先と欺瞞。それは、こいつの有無と大いに関わっていると感じるからだ。



 



 人間「平等」と言うが、皮膚感覚でそれを感じるのは、この「男気」に出会った時ぐらいだ。それ以外はせいぜい言葉のレベル、何かに腰掛けた者達の、言ってみるだけのお話程度と感じている。



 「一肌脱ぐ」とは、立場や状況、垣根を越えて、生身の体でこちらに来る者のことを言う。



 男気なんてのは反知性の、やくざな地場の者達の感覚と一見みえるが、俺は案外真っ当な思想の根に宿る、インターナショナルなものだろうと思っている。



 そう見えないのは、「立場の学」に慣れ切ったこの国の知性が、菌糸はびこる地べたを感じる感性を失い(あるいは避け)、そこから生えた果実としてのキノコばかり刈り取る習性になってるからだと思っている。



 アメリカ辺りの草の根の自由や平等は、案外この辺からだろうと思っている。昔ちょっぴり行ったアラブ辺りでも、こんな感じはあった。



 でなけりゃ平等、自由を実感する場なんて、地上のどこにも無いぜ。実生活じゃ、すべて「お立場ごもっとも」になっちゃって。