ある作家の記憶 (初出 07/26/2006)


 郷里に戻った頃の記憶の一つに、その頃たまたま出会ったある人物の思い出がある。作家を生業とする彼は、故郷でもあるこの地の、ある町外れに住んでいた。私が、関わっていた冊子の取材で彼の家を訪れたのは、戻った年の初冬の頃だった。



 用件は、その頃彼が凝っていたアウトドアの趣味についてだったと思う。雑誌はすでに手元にはなく、詳細は忘れてしまった。だが当時を振り返るたび思い出すのは、次の二つのことである。一つは、訪れた時の印象についてのものだ。



 当時の思いをそのまま表せば、こんな貧寒とした所に何でまたわざわざ…というものだった。それは多分、家の周りの冬枯れのせいであり、冷え切った岩のかたまりでしかない、間近の嶺々のせいだったようにも思う。またそれは、もてなしてくれた妻らしき人の、どこか心細げな様子のせいだったとも感じている。それはそのまま、その頃の私の心を反映しただけのものだったのかも知れない。



 もう一つは、この地に住む意味についてたずねた時の、作家の答えに関するものだ。一時間ほどの取材の間、この頃は小説がさっぱり売れないとこぼすこともあった彼は、次のように答えた。「一つところにいて自分の足元を掘って行った方が、世界が見えてくるのではないか」。



 私はこの言葉には今も、共感を覚えることがある。その「一つところ」が、一般的に作家などの仕事に有利とされる場所ではなく、情報や人の交わりから隔絶されたこの場所であることに、彼が掘り出そうとしている世界の輪郭が見えるように思えたからだ。



 隠者のごとき暮らしが良いものとは、私には思えない。だが彼が、反時代的とも言える生き方のマイナスを背負ってでも追い続けるもの―。それが私が感じた類のものならば、彼もまたどこかで、この地に生まれたことの罪のようなものを背負い込んでいたのではないかと、今は思う。



 彼に関する二つの記憶は、今も私の胸に変わらず棲み続けている。