知識は経験を怖れる(初出 8/20/2006)
知識は経験を怖れる。それは知識に拠る者が、知識の根拠を直覚するからだ。
その先は色々だ。知識の良さを感じつつ、謙虚に経験に学ぶ。そんな模範解答に出会うことはまずない。たいていの者は居丈高になるか、経験の側をネチネチこき下ろしにかかるか、極度に卑屈にへりくだるか。見なかったことにして素通りする、これなどもこの頃多いやり方だ。
そうした態度がどこから出るかは、言わずもがなだ。知識が種々の科挙的仕組みと結びつき、社会のヒエラルキー、利権と絡む構造にあるからだ。
その構造はどこからか。請け負い仕事で学校史を何度か掘り返せば、見る気がなくても見えてくる。ルーツが武家の学問にさかのぼることも含めて。
江戸期、町場や村には寺子屋があった。特色は暮らしの実学だった。玉石混交だったろうから、持ち上げるほどでもないだろう。実用というところに淘汰の基準がある分だけ、真っ当には違いなかった。
明治初めの雪国の田舎。青年達も訪れるある寺子屋で、おもしろい現象が起きた。フランス啓蒙思想の所産と言えば知識層向け読み物の『学問ノススメ』が、人気の的になったのだ。その頃の、全国規模の現象の一こまだった。
彼らは生活実感で読み込んでいた。「なるほど、その通り」。「おらもそう思う」。解釈しない読み方とは、このことだ。
この流れは、歴史的には一時のものだった。でも私は、知識と自分の間合いや起点はここにあると思っている。解釈屋の大家がのっそりと顔を出し、「お前らそうじゃないんだよ」。言ったところでそれはそれ。衝撃を、感動を軸に自分を膨らませていけば、それでいいのだ。そうすれば、経験を怖れる知識なんかにならずに済む。