上げ底社会の一起源・頭の「よさ」 (初出 3/16/2007)
意識は無意識に根ざす。
それは、身体に根ざすと言うのと同じだ。
体で感じたものを表現する。行動で得たものを表す。それが真っ当な言葉であり、真っ当な表現行為なのだ。
身体を経由しない言葉、体で感じることのないままの論理を、観念という。
観念は一種の鋳型だ。組み合わせ・法則性で成り立つから、構築・解体・再構成は早い。即答性にも富む。
「頭がいい」とは、このことだ。
科挙・試験のフィクションに合わせて人生を歩むと、人生も否応なく、観念・フィクションで成り立ってくる。法則性に支配される自分に気が付かなくなる。本当に頭がいいと思い込むようになる。
知人にも、その種の男がいた。現象学の系統とやらに、一生懸命だった。
学ぶことに懸命だっただけ。自分に向けることはなかったので、知の序列への参入は無理と見た時、さっさと捨てた。今は財閥系の役員とか。
なので関わりを止めた訳ではない。断絶していたから。意識の流れが。
身体に根ざさない無意識は、まゆつばと見ていい。神や宗教然り。それとつるむ国家然り。
知の序列の淵源なる彼らには、「頭のいい」者達の扱いは、赤子をひねるより容易だ。
(追補)