振り向けば、悔し涙の味がする  二つの「仕事」 (その一)

(初出 1/02/2007)


 散文的なものを書こうと思ったら、こんなタイトルになった。そんなにナイーブでも、純真でもないのだが。気持ちはそんなところだったという程度に見てもらえればと思う。



 



 仕事には、二つの種類がある。自分を振り返ってみて、そう思うしかない。ひとつは飯のための仕事であり、もう一つは、もちろん飯のためなのだが、どうしてもそれでは済まなくなってしまう仕事である。



 前者として始めたはずが、いつの間にか後者に陥っている。これが私の、五十代初めまで続いた、自分と家族の首を絞めてしまう毎度の傾向だった。今はと言えば、別に超越の境地に達した訳ではない。あちらで衝突し、こちらで放り出され、地方なるもののどん底の不景気も重なって、その種の仕事に関わる機会が無くなっただけのことだ。ひとつ付け加えれば、歴史を含めて赤の他人の人生を掘り起こすのではなく、自分自身を掘り起こせ―。そう腹を決めたからということもあるが。



 前者(飯)のはずが後者(趣味??)に―。この種の傾向の芽は、相当幼い頃に芽生えたように思う。「『われ』を忘れて夢中になる」。これが“諸悪”の根源なのだ。諸悪? 人はきっと、幾分の世辞も込めて言うだろう。「それはいいことじゃないの」。そう、やばいと感じた時に、さっさと切り上げられるならば。だがそれは「夢中」ではない。「われ」を忘れることのない、日常の摂理の世界なのだ。 



 どんな下請けの頼まれ仕事でも、身をいれてやると必ず見えてくるものがある。それは誰しも経験することだろう。「言われたことと、どこか違うんじゃないか?」「ほんとはこうじゃないのか?」。その種の疑問に取り付かれた時、人にはとるべき二つの道がある。解決に向けて突き進むか、仕事と割り切って追求するのを止めるかだ。後から見れば、第三の道もあるように見える。「疑問点は取っておいて、仕事は仕事で済ませてしまう」。確かに、それが可能な仕事もあるだろう。だが、むしろ圧倒的に多いのは、気持ちが熱いその時に、せめて一定程度まで形にしておかなければ、浮かんだ疑問そのものも霧散してしまうだろうということだ。それは例えば、私が幾度か手がけた、個人史を含む歴史の記述において言えることだった。(続く)