振り向けば、悔し涙の味がする  二つの「仕事」 (その二) 更に力むきっかけは―

(初出 1/05/2007)


 力みが原因で窮地に陥ることの多い私が、肩の力を更に抜けなくなったのは、十六年前のある出来事がきっかけだった。それは昔取った杵柄のままに、ローカル局の孫請け仕事をしていた時のことだった。



 私は当時、ローカル番組の構成兼取材者だった。と言っても、一緒に駆け回るスタッフは、同じく孫請けのビデオカメラマンと助手の二人だけだった。だから実態は、取材の段取りに始まり、車の運転、インタビュアー、そして飯の心配や金の払いまでこなさなければならない何でも屋だった。



 私は、涙金の賃金のこの仕事が嫌いではなかった。一番の理由は、金が約束の期日に確実に振り込まれるからだった。当時していた別の仕事―潰れかけた地方出版社の仕事は、輪をかけて安いだけでなく、いつ金が入るかも分からなかったのである。もう一つ付け加えれば、私は少なくとも現場では自由だった。かつてのサラリーマン(カメラマン)時代のように、馬鹿な記者達の指示に怒りをたぎらすことは、もうなかったのだ。それが、実質四、五倍の賃金を捨てて得た、せめてもの代償だった。



 郷里の田舎へ舞い戻ってから十年余。その間続けてきたこの仕事と縁切りとなるきっかけは、結果的に闇に葬ってしまったある出来事だった。事の発端は、役人達が犯した犯罪の手がかりを、取材の中で握ったことにあった。それはこの県の役人達が、ある水力発電所の建設計画に関わる環境アセスメントを、調査会社に圧力をかけ改ざんさせたというものだった。それをたまたま私は、ある番組の取材の中でつかんだのでである。この時の取材のテーマは、一万キロワットにも満たない発電所計画が進められていた谷川を含む、ある地域の水の保全だった。取材を進める中で私は否応なく、いわゆる自然保護派と電源開発推進の行政がぶつかり合う、この問題に関わったのだった。



 私は、行政や政治絡みのこの種の問題を、新聞を含む地方のマスコミが見てみぬ振りをするであろうことは、知っていた。(その後私は、ある医療過誤の被害者と関わるのだが、この問題に「扱い可」のお墨付きが出た今日と違い、彼に近づく地方マスコミは皆無だった)。しかも元請は、県役人の天下り先でもある弱小のUHF放送。番組はその中の、報道なるものの建前すら持ち合わせない、制作部門の発注だった。おまけに制作者は、いつでも切り捨てられる孫請けなのだ。放送できるかどうかを含めて、結果は馬鹿でも予想できた。(続く)