「悪意」を生むものは―

     (初出 12/09/2006)


  地域の「自治」会の張り紙に、「この頃ぶっそうです。お互い不審者に目を光らせましょう」とあった。



 馬鹿者達の所業。



 「十年前と変わらない」。それを言っても、右から左へ。



 都合のいい所だけ耳に残す。そして風潮に心を重ね合わす。



 重ねるだけでなく、そこに欲望を潜ませる。仕切りたい。上から諭したい。



 田舎者の小役人と笑ってはならない。「中央」もまるで同じ。国家というイエを背負った気でいる者達と、まるで同じなのだ。



 意識のあり様に、規模、ヒエラルキーは関係ない。「上」でも「下」でも馬鹿は馬鹿。



 悪意の無い者も、「目を光らせ」られると怒りが、やがて悪意が湧くことがある。



 監視されれば、思いもしない万引きの心がうずくこともあるのだ。



 泥棒は、高い塀の家ほど闘志が湧く。その心理はよく分かる。



 心を開けばいいのだ。気持ちを開いてあいさつし合えばいいだけなのだ。



 そうすれば悪意はしぼむ。しぼまない悪意は、おのずとあぶり出る。それで十分なのだ。



 そのことは言っていく。自分のために。関わりがある間は。