無意識を、恐怖の側に追いやるな(追補)

(初出 03/20/2007 やめちまったサイトより)


 子どもの頃。あれはインフルエンザだったかお多福風邪だったか―。高熱にうなされて、変な夢に取りつかれたことがある。



 俺の頭上で、誰かが見下ろし高笑いしてるのだ。俺はといえば、夢の感覚なので言葉で言えばヘンだが、地球をかじり切れなくて苦しみもがいていた。そして目が覚めれば、布団から飛び起きて、とんでもないところに立っているのだ。



 病気は数日で治ったが、夢と夢遊病は1年程度続き、家族を困らせた。



 振り返れば、それは意識が無意識に押し潰される―。それを表していたのだろうと思う。恐怖は常に、つかみ切れない無意識の闇からやってくる。ことに自我の意識が敏感に働き始める年頃には、無意識への怖れが未知への怖れと重なり、意識としての自己に襲いかかって来くるのだろう。熱は、過敏を呼び覚ます媒体の役目を果たしたのだろう。



 子どもに恐怖を味わわせてはいけない。この体験を振り返っても思う。子どもに恐怖を味わわせる。それは無意識を「恐怖」の側に追いやってしまう行為なのだ。子どものまだ見ぬもの、知らないものを盾に子どもをしつけるのも、同じだ。いわく「社会は…」「人は…」「神は…」。



 子の恐怖を取り去るために、言葉を使うのも愚かなことだ。一番いいのは、在るものを在るものとして見せることだ。そして親が揺るがぬこと、かたわらで見守ること、親自身が日々、自分の行動をとることだ。



 下の子にはある程度できた。上の子にはできなかった。社会の下劣な自我なるものと、下らぬ勝負をしていたからだ。


(追補)



 俺は宗教家でも、門徒でもない。だが親鸞絶対他力は、無意識との関わり方を言うような気がしている。



 委ねる。しかし自分の放棄ではないということを。